イントロドン

こいのぼり

♪鯉のぼり – Koi Nobori|♬やねよりたかい こいのぼり おおきいまごいは おとうさん♫【日本の歌・唱歌】

『こいのぼり』は童謡、唱歌。作詞は近藤宮子、作曲は不明。1993年までは近藤は作詞者として認められなかったため、近藤が1999年まで存命だったにもかかわらず歌詞の著作権は既に消滅している。

1931年(昭和6年)12月に刊行された『エホンショウカ ハルノマキ』が初出。

長年著作権者は日本教育音楽協会とされていたが、著作権が切れる1981年(昭和56年)に日本教育音楽協会の元会長の男性に作詞者を変更した。近藤はこの曲を含めた6曲が自分が作詞した曲であると訴え、裁判を起こして勝訴し、作詞者が再び変更された。

この歌詞では真鯉を父親、緋鯉を子どもとしている[1]。鯉のぼりは明治時代後半から大正時代にかけて真鯉(黒い鯉)と緋鯉(赤い鯉)の二匹を一対であげるようになったが、武家発祥の行事であったこともあり真鯉と緋鯉は父と子(男児)を表していたとされる。第二次大戦後、昭和30年代後半には小さい青鯉が加えられるようになり、家族観の変化なども相まって鯉のぼりの構成は緋鯉(赤い鯉)が母親、青鯉が子どもと再定義されるようになった。

1988年には、イタリアの国際児童歌唱コンクール「第30回ゼッキーノ・ドーロ」の出場曲に選ばれ、『L’aquilone dei sogni(夢のような凧)』という題のイタリア語歌曲として日本人出場者により歌われた。イタリア語詞はアレッサンドラ・ヴァレリ=マネーラ(it)による。

2007年に「日本の歌百選」に選ばれた。

2017年の保育士実技試験(前期)課題曲に取り上げられた。

フジテレビの子供向け番組『じゃじゃじゃじゃ〜ン!』で、町あかりが「歌のお姉さん」として替え歌「宇宙をおよぐ!こいのぼり」を歌い、2019年発売のアルバム『あかりおねえさんのニコニコへんなうた』に収録された。

鯉のぼり

♪ こいのぼり(いらかの波と)

『鯉のぼり』(こいのぼり)は童謡。文部省唱歌。作詞は不詳、作曲は弘田龍太郎。

こいのぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っている。甍とは瓦のことであり、「竜になりぬべき」というのは鯉が滝を登って竜門をくぐると竜になるという伝説から来ている。

1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出。

文語調であるため、最近は口語調の「♪屋根より高い…」で始まる『こいのぼり』のほうがよく歌われ、この歌はあまり歌われなくなっている。

背くらべ

♪背くらべ – Sei Kurabe|♬はしらのきずは おととしの♫【日本の歌・唱歌】

『背くらべ』(せいくらべ、脊くらべとも)は、童謡。作詞・海野厚、作曲・中山晋平。

1919年(大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲としては1923年(大正12年)に発売された『子供達の歌 第3集』が初出。2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれた。

歌詞は端午の節句に背丈を計ってもらった子供の視点で書かれている。これは海野の17歳年下の末弟、春樹の視点から描いていると言われ、「兄さん」が海野である。柱の傷が「一昨年」なのは、「昨年」は海野が東京におり、静岡県(現静岡市駿河区曲金二丁目)の実家に帰って来られず、弟の背丈を計ってやることができなかったからである。実家に帰れなかった理由は諸説がある。「やっと羽織の紐のたけ」は一昨年からの背丈の伸びが羽織の紐の長さと同じぐらいだとする説が有力だが、背丈自体が大学生の兄(海野)の羽織の紐を結んだ高さとする異説もある。2番の歌詞は、実家が静岡なので富士山が登場し、弟が自分の背丈と比較しているのである。

静岡市立西豊田小学校の敷地内、長野県中野市の中山晋平記念館には、同作品の歌碑が建立されている。

みかんの花咲く丘

日本の童謡 みかんの花咲く丘

みかんの花咲く丘(みかんのはなさくおか)は、第2次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實による。レコードは、井口小夜子が吹き込んだもの(1947年7月・キングレコード、表記は「みかん花咲く丘」)と、川田正子が吹き込んだもの(1947年〜1948年頃・日本コロムビア)が存在する。

「戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲」とも称される。

1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった。放送には当時12歳で人気絶頂の童謡歌手であった川田正子が出演することになっており、作曲家の海沼實が川田が歌う曲の作曲を任されていたが、前日の24日になっても作品は仕上がっていなかった。そこへ音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきた。海沼は加藤に事情を説明し、必要な歌詞の大まかな流れを加藤に説明した上で、その場で作詞するよう加藤に求めた。

加藤はまず主題から検討した。放送の行われる静岡から加藤がまずイメージしたのは、みかんであった。しかし当時、サトウハチロー作詞の『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、みかんの実の方を扱えば加藤の先輩にあたるサトウ・ハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われるおそれがあった。8月はみかんは実がなっている季節であったが、あえて実ではなく、花の方を主題とすることに決め、海沼が指示した流れにみかんの花が咲く情景を盛り込む形で、1番と2番にあたる部分を完成させた。3番も作るよう求められた加藤は、自らの体験を元に3番を書き足し、海沼の依頼から約30分で歌詞を完成させた。

原稿を受け取ると海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲を始めた。車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成した。宿に着くと海沼は川田とともに入浴し、作ったばかりの旋律を口移しで川田に教えた。翌日の放送では川田はまだ歌詞を覚えておらず、海沼が名刺の裏に書いた歌詞を見ながら歌う、という慌ただしさであったが、歌は日本全国に大反響を呼び、『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。

夏は来ぬ

唱歌「夏は来ぬ」

『夏は来ぬ』(なつはきぬ)は、佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲の日本の唱歌である。1896年5月、『新編教育唱歌集(第五集)』にて発表。2007年に日本の歌百選に選出されている。

卯の花(ウツギの花)、ホトトギス、五月雨、田植えの早乙女、橘、蛍、楝(おうち)、水鶏(くいな)といった初夏を彩る風物を歌い込んでいる。

「夏は来ぬ」は文語で、「来」(き)はカ行変格活用動詞「来」(く)の連用形、「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形で、全体では「夏が来た」という意味になる。

2015年3月14日に開業した北陸新幹線の上越妙高駅で発車メロディとして使用されている。

おかあさん

おかあさん 森昌子 Okaasan Masako Mori

『おかあさん』は、1974年9月1日に発売された森昌子の10枚目のシングル。

森昌子はこの曲で、1974年末の『第25回NHK紅白歌合戦』に、2年連続2回目の出場を果たした。
また翌1975年春の第47回選抜高等学校野球大会では、入場行進曲としても採用され、森はセンバツ大会の開会式にゲスト出演した。

ああ上野駅

井沢八郎 「あゝ上野駅」

「あゝ上野駅」(ああうえのえき)は、1964年(昭和39年)5月に発表された日本のポピュラーソング(演歌)。あるいは同曲を収録したシングル。

作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・井沢八郎。

関口義明は、上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き、農家向け家庭雑誌『家の光』の懸賞に応募、1位入選を果たした。

これを見た東芝レコードの近藤秀男によりレコード化され、当時ほぼ無名の若手歌手だった井沢八郎が歌った。1位入選作は大物歌手によってレコード化されるという触れ込みであったため、関口は落胆したが、歌手を志して青森県から単身上京した井沢自身の人生も重なり、発売後まもなく「金の卵」と呼ばれた集団就職者などから支持と共感を得て、高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲となった。いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲であり、井沢の代表曲との呼び声も高い。

「あゝ上野駅」の累計売上は100万枚を記録した。

美空雲雀(柔)

「柔」(やわら)は1964年11月20日に発売された美空ひばりのシングルである。

美空ひばりは表題曲で1965年の「第7回日本レコード大賞」を受賞した。またひばりは、『NHK紅白歌合戦』に1964年の『第15回NHK紅白歌合戦』、翌1965年の『第16回NHK紅白歌合戦』と2年続けて表題曲で出場し、どちらも紅組トリを務めた(第16回は大トリ)。なお、これに関し各マスコミから「2年連続同じ歌を歌うとは非常識だ」とのバッシングもあった。

表題曲が発売された1964年に開催され、初めて柔道が正式競技に採用された東京オリンピックともあいまって、翌1965年にかけて爆発的にヒットした。発売から半年足らずで180万枚以上を売り上げる大ヒットとなったが、これはひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となっていた。2019年現在は195万枚を売り上げ、シングル売上では1989年に発売された「川の流れのように」に次ぐヒットとなっている。

柔道の総本山「講道館」を描き、日本電波映画が製作し日本テレビ系列で1964年から1965年にかけて全3シリーズが放送されたテレビドラマ『柔』、『柔一筋』、『続・柔』の3つのシリーズ全てで本楽曲が主題歌として使用され(『続・柔』では本楽曲に加えて、後述の『柔の男』もあわせて使用された)、その名の通り「柔道」をテーマとした曲である。

表題曲が発売された翌年の11月5日にはアンサーソングとして、「柔の男」が表題曲と同じく関沢新一の作詞、古賀政男の作曲、ひばりの歌唱により発売され、日本テレビ系ドラマ『続・柔』の主題歌として使用された。

冒頭部分の「勝つと思うな、思えば負けよ」という歌詞は、吉田兼好が書いた「徒然草」に双六の名人の言葉として出てくる「勝たんと打つべからず、負けじと打つべきなり」がベースになっているという。

ひばりがステージなどで本曲を歌唱する時は、男装して歌うことが多かった。

高原列車は行く

高原列車は行く(岡本敦郎)

1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった[1]。その後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

NHK紅白歌合戦に7回出場している(詳細は下記参照)。

舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹込みを想定して作られたものである。

誰か故郷を想わざる

誰か故郷を想わざる 霧島昇

誰か故郷を想わざる(たれかこきょうをおもわざる)は、昭和15年(1940年)発売の戦時歌謡曲。旧仮名遣いでは「誰か故郷を想はざる」と書く。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、1940年1月20日、日本コロムビアから発売された。半年間で56万枚を売り上げるほどの大ヒットにより、新興キネマより同名映画が製作された。 ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

タイトルは「故郷を想わない人はいない」という意味の反語であるが、当初、こういった点が難解すぎてヒットしないと判断され、慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという。ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入された。慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣きして、満場涙に暮れたというエピソードもある。

内地の工場などでは「曲調が哀愁に満ちており士気が下がる」と禁止したところもあったという。四面楚歌の故事にもあるように望郷の念をかきたてるのは士気を下げるための有効な方法であるから無理もないが、この曲の人気には影響しなかったようである。

旅の夜風

旅の夜風 霧島昇さん ミス・コロムビアさん

「旅の夜風」(たびのよかぜ)は、1938年(昭和13年)9月10日に、「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコードから発売された日本の歌謡曲。松竹映画「愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした歌であった。

「旅の夜風」は作詞西條八十、作曲万城目正。「悲しき子守唄」は作詞西条八十、作曲竹岡信幸。「旅の夜風」の歌は霧島昇、ミス・コロムビアで、「悲しき子守唄」の歌はミス・コロムビアのみである。霧島とミス・コロムビアの名が全国的に広まるとともに、2人を結びつけるキッカケにもなった歌である。

「旅の夜風」は第二次世界大戦後に藤原良・高石かつ枝、神戸一郎・青山和子、藤巻潤・都はるみの各コンビでカバーされた。オリジナル歌手の一人である霧島昇も九条万里子とのコンビで1967年に再録音し、『誰か故郷を想わざる 霧島昇愛唱歌集』(ALS-4229)に収録している。2007年には氷川きよしのアルバム『演歌名曲コレクション7〜あばよ・きよしのソーラン節〜』でカバーされた。

青い山脈

青い山脈 藤山 一郎

1981年1月1日に放送されたTBS「全国歌謡曲大調査、明治から昭和この百年!史上最大のベストテン」では一位を獲得した。また、上述の1989年に放送されたNHK『昭和の歌・心に残る歌200』でも一位を獲得している。

この曲を歌った藤山一郎と作曲者の服部良一は共に国民栄誉賞を受賞している(作詞の西條は国民栄誉賞創設以前に死去)。

NHK紅白歌合戦では、藤山が紅白歌合戦30回記念として特別出演した1979年の「第30回NHK紅白歌合戦」でメドレー内で歌唱されたのと、紅白40回記念として第1部が「昭和の紅白」として開催された1989年の「第40回NHK紅白歌合戦」の計2回歌唱されている。

作曲者の服部良一は、著書[3]の中で「梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴のはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちににわかに曲想がわいてきた」と記している。近年、これを曲解し北摂地方の山並みとしている資料もあるが誤りである。 そして、この列車の中で手帳に書きとめようとしたが、生憎車内は買い出しの客で満員。五線譜を書くことができない。とっさの思いつきでハーモニカの番号を書いたという。服部自身「周りの人も、闇屋が計算していると思ったのでしょうね。」と回想している。

藤山一郎と奈良光枝がデュエットで歌唱している映像は1975年に放送された「第7回思い出のメロディー」のものが現存している(奈良は1977年に53歳で死去)。

カラオケ画面では藤山一郎自身が音楽教師の役で出演していた。

2011年10月から映画の原作者である石坂洋次郎ゆかりの地にある横手駅(秋田県)の発車メロディとして使用されている。

瀬戸の花嫁

瀬戸の花嫁 小柳ルミ子

「瀬戸の花嫁」(せとのはなよめ)は、1972年4月に発表された小柳ルミ子の4枚目のシングルである。小柳ルミ子としては「わたしの城下町」に次ぐヒットとなり、2作目の週間オリコンチャート首位を獲得した。 

「わたしの城下町」同様、”ディスカバー・ジャパン路線”を踏襲する楽曲で”瀬戸内海”をテーマに製作された。瀬戸内海を代表するご当地ソングである。瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。曲の舞台が香川県小豆郡土庄町沖之島であるとする説もあるが、モデルとなった具体的な島はない。作詞の山上は瀬戸内海の島は訪れたことはないが、瀬戸内海は仕事で四国へ行く途中、水中翼船で何度も通ったことがあり、広島県尾道から四国に向かう水中翼船から見た段々畑と、美しい夕焼けの島々の景色が印象的で、それを思い浮かべ作詞をしたと話している。

小柳本人が大澄賢也との離婚騒動が話題になっていた当時、この曲をもじった「瀬戸際の花嫁」という見出しが週刊誌に登場したことがある。後年小柳はこの見出しについて、あれは実に上手いキャッチコピーだったと述べている。

三百六十五歩のマーチ

三百六十五歩のマーチ 水前寺清子(1996 OA)

それまで演歌の本流とも言える楽曲をリリースし続けた水前寺がリリースした歌謡曲ナンバーで、題名の通り一日一歩ずつ歩み続ける人生を励ますマーチ(行進曲)調の曲である。ジャケット写真もそれまでの着流し姿から一転、マーチングバンドのドラムメジャー姿になった水前寺がポーズを決めたものとなっている。

水前寺は楽曲提供を受けた当初は演歌歌手としてヒット曲を連発したプライドから英語の「ワンツー」という歌詞がある本曲に「冗談じゃない。わざとイメージに合わない曲で私を辞めさせる気だ」と疑心暗鬼になったという。作詞した星野哲郎によると、「息の長い歌手でいるには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」との思いもあってこのような楽曲を作ったとのことである。

このように水前寺が不本意ながらリリースした楽曲であるが、「日本が自信に満ちた時代だった」(日本クラウン元ディレクターの長田幸治談[1])という高度経済成長の時流にマッチし、累計では100万枚を越える売り上げ(ミリオンセラー)となり、結果的に水前寺の最大のヒット曲にして水前寺の代表曲となった。水前寺はヒットとファンからの熱い手紙に歌への気持ちが大きく変わり、「最初は歌いたくなかった曲が、今では誇りです」と語っている。

翌1969年には、本曲を題材とした映画として、松竹版コント55号シリーズ第3弾『コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ 三百六十五歩のマーチ』(監督:野村芳太郎)が製作公開された。

発売から12年後の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅白初歌唱された。また、対戦相手は同じく初歌唱となった「チャンチキおけさ」を歌う三波春夫で、初歌唱対決となった)、翌1969年には第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれたほか、年間チャートでも第36位に入る。同年末には第11回日本レコード大賞大衆賞、第2回日本作詩大賞大衆賞を受賞した。

ちなみに水前寺本人は2番の歌い出しの歌詞を好んでいるという。

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