消防記念日(3月7日)

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1948(昭和23)年のこの日、「消防組織法」が施行された。

明治以来消防は警察の所管とされていたが、これにより、条例に従って市町村長が消防を管理する「自治体消防制度」となり、各市町村に消防本部・消防署・消防団の全部または一部を設置することが義務附けられた。

これを記念し、2年後の1950(昭和25)年、国家消防庁(現在の消防庁)がこの日を消防記念日とした。

消防の雑学

世界最古の消防隊

歴史上、記録に残る最古の消防組織は、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(シーザーの養子)が、西暦前17年に組織した消防隊だといわれています。これ以前にも、神殿の護衛のために火災に対する警戒制度があり、また、火災や盗難防止のため、奴隷を使って夜間警戒に当たらせたりしていましたが、このような方法では、相次ぐ火災を防ぐことはできなかったようです。

アウグストゥスの消防隊は、一隊500人(100人とも1,000人ともいわれる)からなる七隊で編成されていました。各隊の指揮は護民官が行い、総指揮は執政官に次ぐ強大な権限を持つ消防総隊長(夜警長官とも呼ばれた)が当たっていました。

 消防隊は、市の周辺にやぐらを建てて見張りを行い、火災を発見したときはラッパを吹いて知らせていました。消火活動用の装備品としては、バケツ、組立はしご、牛腸製のホース、水がめ、おの、ハンマー、のこぎり、水噴出器などでしたが、このほかに、高層建物から飛び降りて避難する人々のために、大きな枕も準備していました。救助マットの前身がすでに使われていたのです。

 また、大火になるとサイフォンを利用して水を吸い上げ、消火用水として使っていました。おそらくこれは、水頭圧を利用して、火災の際の水利として活用した歴史上初めてのものではないでしょうか。

たたき起こされた臥煙(がえん)

江戸城の防火を目的として設置された消防組織である定火消は、慶安3(1650)年6月、幕府直属の4,000石以上の旗本をもって創設されました。
 万治元(1658)年には4組でしたが、その後数回の改廃を経て、宝永元(1704)年には10組となったことから、別名十人屋敷、十人火消と呼ばれていました。
 定火消には、八代洲、赤坂、お茶の水、四谷などに火消屋敷が与えられ、各屋敷には与力や同心、そして火消活動を行う臥煙(臥烟又は火煙とも書いた)などおよそ100人近くが常駐していました。

 与力や同心のもとにあって、直接消火作業に当たった臥煙について、太田櫛朝は『江戸乃華』で次のように述べています。

 「火消卒をぐわえんといふ。すなわち臥烟(ぐわえむ)の音称なり。此ぐわえんといふもの、江戸者多し。極寒といへども邸の法被(はっぴ)一枚の外衣類を用ひず、消火に出る時は、満身の文身(ほりもの)を現はし、白足袋はだし、身体清く、男振美しく、髪の結様法被の着こなし、意気にして勢よく、常に世間へは聊(いささ)かの無理も通りければ、祁寒の苦を忘れて、身柄の家の子息等のぐわえんに身を誤るもの少なしとせず。此者共皆大部屋に一同に起臥し、部屋頭の取締りを受く。
又義侠ありて、よく理非を弁ふ。火事なき時は三飯の外は吾身の掃除なり、夜中臥すに長き丸太を十人十五人一同に枕とす、櫓太鼓鳴や、枕木の小口を打て起せば、直ちに飛出て火に赴くといふ。火中命を捨る者まゝありし。・・・」

 臥烟(がえん)という語が、品性の卑しい無頼漢を指していう語として使われるようになった経緯は、上の文中から察せられるようです。

 現在の消防職員は、夜間出場する場合でも出場指令の放送を聞いて飛び起きますが、臥烟(がえん)は、一列に並んで寝ている木枕の小口を、寝ずの番が木づちで叩き、その音と振動によって起こされました。“たたき起こす”の語源は、さしずめこの辺にあるのではないかとする説に、うなずけなくもありません。

へらひん組がなかった「いろは四十八組」

「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」
 上記は、儒者荻生徂徠の「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」との進言を受けて、時の町奉行大岡越前守忠相が出した奉行令です。この町触れによって、消火に当たった者を店火消と呼んでいましたが、いろいろな人々の集まりでしたから統制もなく、火災現場へ駆けつけてもただ右往左往するばかりでした。
 しかし、この制度が町火消誕生の芽ばえとなり、大岡越前守忠相は、享保3(1718)年には町火消をつくり、享保5(1720)年にはいろは四十八組を編成し、本格的な町火消制度を発足させました。

いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「百」「千」「万」「本」に変えられました。「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いというのが、その理由でした。

 また、隅田川の東側の本所・深川には、区域を三つに分けて16組の火消組を置きました。そして、町火消に要する費用は、町費をもって賄うよう、それぞれの町会などに分担させました。

 こうしてつくられた町火消は、お互いに組の名誉をかけて働くようになり、纏をかかげて功を競いました。はじめは出動範囲も町屋だけに限られ、武家屋敷の火災に纏をあげることはできませんでしたが、徐々にその功績が認められ、武家屋敷の火災はもちろん、延享4(1747)年には江戸城二之丸の火災にも出場して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示し、町火消全盛時代を築いていきました。

 三田村鳶魚は、町火消の出場風景を

「名主は、野袴に火事羽織、兜頭巾というなりで先頭に立ち、それに続いて家主がその組の印のある半纏、紺股引というなりで、これも頭巾を被ってゐる。鳶の者は刺子半纏に猫頭巾、道具持は道具を持ち、その他の者は皆鳶口を持ってゐる。その出かけていくとき、うち揃って木遣を唄ふがその声を聞いてゐると、キャアー、キャアーといって如何にも殺伐な声である。・・・」

と記しています。

 この町火消は時代の移り変わりによって、消防組(明治5年)→警防団(昭和14年)→消防団(昭和22年)と改組されていきました。現在の消防団は、昭和23(1948)年の消防組織法に根拠を置くものですが、町火消の名残は、(社)江戸消防記念会に引き継がれており、平成12年末現在、88組、約1,000人余の会員たちが伝統を守り続けています。

纏のいわれ

町火消が、組の目印(シンボル)として用いたのが纏(まとい)です。纏はもともと群雄割拠の戦国時代に、戦場で敵味方の目印として用いたもので、的率(まとい)あるいは馬印(うまじるし)と称していました。
 江戸時代に入り太平の世が続くと、武家の的率は使われなくなり、これに代わって火消が火災現場で用いる標具となりました。この纏を初めて使ったのは、大名火消だといわれていますが、定火消の消防屯所では、玄関敷台の右わきに、定紋をつけた銀箔地の纏を飾り、厳めしい火事装束に身を固めた侍たちが待機していたということです。この纏が、火消にとってどれほど重要なものであったかは、天下に名高い加賀鳶の喧嘩の様子によって知ることができます。

 享保3(1718)年12月3日、本郷の杉浦屋敷から火が出ましたが、加賀鳶の一番手がさっそく駆けつけて、これを消し止め、消し口の屋根に纏を立てました。そこに新手の定火消、仙石勢が駆け上るや、加賀鳶の纏持ち以下を屋根から転げ落とし、自分の纏を立ててしまったのです。落ちた拍子にまといが折れたことが加賀鳶の怒りを一層かりたて、彼らは大暴れに暴れて仙石の纏を追い落としてしまいました。そのついでに、仙石方の臥煙(がえん)を一人殺してしまったことから騒ぎはますます大きくなり、両家だけの話し合いでは収まらず、老中を通じ将軍吉宗の耳にまで達してしまいました。吉宗が名奉行大岡越前守忠相に事件を調査させた結果、仙石側の横車が事の起こりであることが判明し、仙石は厳しいお叱りを受けました。

江戸の華、い組の纏(歌川芳虎 画) 町火消が誕生して間もなくの享保5(1720)年4月、大岡越前守は、町火消にも纏を持たせ士気の高揚を図りました。もっとも、このころの纏は纏のぼりといわれた幟形式のもので、馬簾(ばれん)(纏にたれ下げた細長い飾りで48本ある)はなく、火災出場区域や火災現場心得などが書かれていました。纏は、いろは48本に本所・深川の16本を合わせて64本ありました。

 今日見られるような形の纏になったのは、享保15(1730)年のことで、当時纏の馬簾には、今日のような黒線は入っていませんでした(ただし、一般の町火消と区別するため、上野寛永寺に火災が起こった際に駆けつける「わ組」と「る組」の馬簾には1本、湯島聖堂に火災が起こった際に駆けつける「か組」の馬簾には2本の黒線が入っていました)。

 纏の標識部を陀志(だし)と呼んでいますが、これらはそれぞれの組の土地に縁のあるものや、大名の紋所などをデザイン化したものが多く、「い組」に例をとると、芥子(けし)の実に枡を型取ったものであることから、芥子枡(消します)の纏と呼ばれています。この名は、大岡越前守が付けたものという説もあります。

 すべての纏の馬簾に、黒線が入れられるようになったのは、明治5(1872)年に町火消が消防組と改称されたときからで、受持区域を一定の区域に区切って線を入れていました。当時は1本から6本までの黒線でした。
 現在(社)江戸消防記念会に、88本の纏が保存されています(平成12年8月現在)。

突然の病気やケガで困ったら(堺市版)

困った時は#7119~救急安心センターおおさか~

救急安心センターおおさかでは、急な病気やケガで救急車を呼ぶか迷う、病院を受診した方がいいのか判断に迷う、夜間・休日で病院を受診したいがどの病院に行ったらいいかわからない、といったとき看護師や相談員が医師の支援体制のもと年中無休で対応します。緊急性の高い相談にはただちに救急車が出動します。
救急医療の適正利用に、皆さま方のご理解ご協力をお願いいたします。
※健康相談、介護相談、現在かかっている病気の治療方針や薬などのご相談はお受けできませんのでご注意ください。

救急車が2台出場します

救命率向上のために

意識や呼吸がないなどの重篤な傷病者が発生した際、西消防署等に配置されている救急隊以外にも、特別救急隊が出場する場合があります。
傷病者が1人でも、救急現場に救急車が2台集結することになります。
また、救急車以外にも、消防車が救急現場に駆けつけることがあります。「なぜ救急現場に消防車が」と思われる方もおられますが、これは、消防隊が救急隊のサポートをするために出場するものです。(これをPA連携といいます。)

特別救急隊とは

医師・看護師が救急車に同乗して、ドクターカーとして出場する救急車で、堺市立総合医療センター内の救急ワークステーションに配置されています。

救急現場に消防車も駆けつけます

119番で救急車を要請した場合、重篤な状態が疑われる時は、救急隊の活動を支援する目的で、救急車以外に消防車も救急現場に駆けつけます。また、消防車の方が救急現場に近い場合は、消防車が先に救急現場に到着することがあります。
そのため、消防隊員は日々救急活動の訓練を実施しており、消防車に積んであるAEDを使用して、必要に応じて電気ショックを実施したりします。

スマートフォンを活用しています

救急隊はケガ人や病人を搬送する際、スマートフォンを活用しています。
スマートフォンのGPS機能で、救急現場から1番近い病院を探したり、各病院の受け入れ状況をリアルタイムで確認したりしています。
市民のみなさまのご理解をお願いします。

消防署の豆知識

「すべり棒」 今はもうない

消防士を題材としたドラマなどに出てくることも多かった、出動時に消防士が棒から滑り落ちてくるシーン。あのシーンで移動手段として使われている棒を「すべり棒」と呼びます。

かつてどの消防署にも備え付けられていたすべり棒ですが、今ではすっかりその姿を消しました。その理由はふたつあり、ひとつめがすべり棒を使用した出動時、足を挫いてしまったり手を滑らせて落ちてしまったりと、怪我が多発したためです。そしてもうひとつが、実はすべり棒よりも普通に階段を使用して降りたほうが早かったからです。

今はすべり棒の代わりに階段の手すり中央に、降りる時の動線が膨らまないように握って回りながら降りれる棒を設置するなど、各消防署で色々な工夫が行われています。

返事は「はい」ではなくなぜ「良し!」なのか

消防職員の返事はどんな時でも「はい」ではなく「良し!」です。消防職員を描いた漫画やテレビドラマなどの作品で、隊長の命令に隊員が「良し!」と返事するシーンを見た事がある方も多いのではないでしょうか。これは、消防職員採用試験に合格し、消防学校へ入学するとすぐに「返事はいつでも良し」と習います。

これは、火災や救助、救急の現場では指揮官の命令が絶対であることと、返事が一瞬でも遅れたり、命令に対する返事をためらったりすることが、人の命に係わるからです。命令に対してすぐに「良し!」と返事し、ただちに行動を起こさなければいけません。現場で「要救助者の検索を実施しろ!」と言われた時から、消防署内で「訓練が終わったら昼食にしよう」と言われた時まで全て返事は「良し!」です。

勤務中の食事はどうしているの?

日本の消防職員は、勤務中に外食のために出かけたり、コンビニエンスストアやスーパーなどで食事を購入したりするのが禁止されています。これは、外出している時に緊急出動要請が入った時に初動が遅れること、消防職員が勤務中に食事をしている姿を見られるのは、「市民の手本」である地方公務員にあるまじき姿である、という意見があるから、という理由から来ています。なので、消防職員は勤務中全ての食事は消防署内で済ませます。

食事は、自分で作ったり奥さんに作ってもらったお弁当や、出勤前にコンビニなどに立ち寄って購入したものを持参したり、出前や宅配弁当を皆で注文したりします。中には食材購入のためのお金を出し合って、消防署内の台所を使用して自炊する消防署も少なくありません。実際に、消防署内には先輩から後輩に伝授される、消防署伝統のカレーや豚汁などの秘伝レシピがあることも。

消防署の入口にある「かけつけ電話」とは?

消防署によっては、玄関付近に「かけつけ電話」などの名称で受話器が備え付けられていることがあります。これは、夜間などで消防署が閉まっている時間帯に、消防署に用事があって訪れる市民と内部にいる消防職員が会話できるようになっている電話です。

かけつけ電話を使用した案件で、特に多いのが「指輪が抜けなくなったので切って欲しい」という申し出。他の火災や救助案件は119番通報が圧倒的に多くなっています。

消防自動車の色

緊急自動車を赤や白に塗色しているのは、色彩が持つ人間の感覚に訴える効果を狙うことがもとになっています。

では、消防車は、なぜ赤色なのでしょうか・・・?

理由は定かではありませんが、外国から輸入した蒸気ポンプや消防車が赤色であったため日本も同じ色にしたということが一般的な理由のようです。

なお、昭和26年に「道路運送車両の保安基準」という運輸省令で、「緊急自動車の車体の塗色は、消防自動車にあっては朱色とし、その他の緊急自動車にあっては白色とする」と定められました。

一般的に消防車は赤色と言われていますが、法規上では「朱色」なのです。

救急車の場合は、その他の緊急自動車に分類されるため、白の塗色に赤色の一線が入っています。

外国の消防車の塗色ですが、フランス、イギリス、オーストリア等では赤色。ドイツでは、赤又は紫色。アメリカでは赤、白、黄、青、黒色など消防局によって色が異なるようです。

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