100円ショップ

今や当たり前の存在となっている100円ショップだが、一体どうしてここまで発展したのだろうか? 実は100円ショップがここまで発展できたのは、100円ショップの代表格・「ダイソー」の創業者である矢野博丈(やのひろたけ)の経営哲学によるものだった。

まず矢野氏がどんな人物かを語ると、とてつもなく波乱万丈な人生を送ってきた人である。

  • 妻の実家のハマチ養殖業を継いだものの、3年で倒産
  • 700万の借金を抱えたため夜逃げ
  • 転職を9回重ねる

などなど、ちらっとあげるだけでも、かなり壮絶な人生である。そんな矢野氏が最後に行き着いたのが、移動販売だった。その内容は、倒産したり資金繰りが厳しくなった企業から、商品を安く買い取り、市場価格より安く売るというものだ。

当初、商品の値段は100円には統一されていなかった。しかし忙しくて値段設定が追い付かず、最終的に100円均一で販売されるようになったのだ。こうしてみると100円に統一されたのは偶然の産物で、いかにも運命的だといえる。

法人化するもののピンチが…!しかし逆転の発想で大発展!

1977年には「大創創業」として法人化し、ダイエーにも商品を展開。矢野氏の事業は好調に思えた。

しかしあるとき、ダイエーのオーナーの「催事場の雰囲気にそぐわない」という意向で、100円均一の催事がダイエーでは行われなくなるピンチが訪れる。このままでは潰れてしまう…! そこで矢野氏は考えた。

「だったら、ダイエーの客が流れるところに、お店を作ったら良いじゃない」

この発想で自ら店舗を展開し、今のダイソーにつながるというわけだ。

そこからチェーン店を次々に出し、リピーターを繋げるために、バイヤーによる新商品開発にも力を入れた。こういった努力と施策の積み重ねによって、ダイソーは今、多くの人々に愛されているのだ。

波乱万丈な人生を歩んで来た矢野氏の苦労は、100円ショップの発展のためにあったのかもしれない。

面積1,000坪以上の店舗

2,000坪以上の店舗は店名に「ギガ」を冠する(2019年現在、ギガ船橋店のみ)。

近畿地方
つかしん店(兵庫県尼崎市、1,156坪)
イズミヤ泉佐野店(大阪府泉佐野市、1,000坪)

100円ショップで一番売れている商品

100円ショップで最も売れているのは「ネクタイ」。なんと3秒に1本売れ、年間約200万本も購入されている! これは、日本のネクタイ売り上げ総数の2割を占めているほど。

どれくらい人気なのかというと、日本で売れたネクタイの割合で、100円ショップのものは全体の2割を占めている。なんと3秒に1本…年間の売り上げでいうと200万本も売れているぐらいだ!

100均のルーツは十九文屋

現代ではもはや定番のお店となりました100円均一ショップ、大きな都市でも小さい都市でも必ず見つけることが出来ます。

アメリカには「99セントショップ」、イギリスには「1ポンドショップ」、ドイツには「1ユーロショップ」、中国には「一伍一拾」と、世界的に均一価格のストア業態は一般化してきています。手軽な価格で質の良いものが手に入ることから、一般庶民にとっては生活費の節約になくてはならない存在と言えるでしょう。

そんな100円均一ショップと同じようなお店がなんと江戸時代にもあったのです。

そのお店は「十九文屋」とか「十九文見世」と呼ばれ売っている商品は十九文均一で販売され、正に江戸時代の100円ショップでした。

銭一文は現代で約12円と言われていますから、単純計算で228円になります。蕎麦が16文(192円)でしたから、それよりちょっと高い値段です。

実際は100円よりも若干高いが現代の均一ショップの先駆けと言えるでしょう。

販売方法も現金掛け値なしの均一価格で評判を呼び、たちまち江戸中で真似をするものが続出し一気に広まりました。

しかし店構えは立派なものではなく道端に敷物を敷いて、そこに商品を並べて売っていただけでしたが、とてもよく繁盛したそうです。

どんなものを売っていたのか?

主に販売されていた商品は女性用の小間物と呼ばれる日用品や装身具である櫛やカンザシを最初は売っていました。

それらが評判を呼んで売れ始めると他にも煙管(キセル)、糸類、鏡、剃刀、人形、三味線の道具、将棋の駒、鼻紙入れ、盃、筆、墨なども販売していました。

江戸時代は生鮮食品などの保存技術が発達していないため生鮮食品は置かずに、しかも機械による大量生産ができない時代に安定して商品を販売していたのが人気の秘密だったようです。

この販売方法も100円ショップと同じです。

そのため江戸に住んでいる人だけではなく、地方から江戸にやってきた、おのぼりさんの人たちのお土産屋さんとしても十九文屋は利用されていました。

十九文屋が出来た背景

八代将軍の徳川吉宗が享保の改革を行った際に、庶民に質素、倹約を求めたため江戸全体の景気が冷え込み、ものが売れなくなってしまいました。

現代でも不景気になった時に100円ショップは繁盛しましたが、それと同様に江戸時代でも不景気から生まれたのが「十九文屋」と言えます。

十九文屋は江戸中期以降には総菜ものなども取り扱うようになりますが一旦は廃れてしまいます。

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