日本人が発明したのも

明治20年『乾電池』屋井先蔵

『乾電池』屋井先蔵(やい さきぞう)当時使用していた液体のルクランシェ電池があまりにも使いにくく、液体状の電解液をガラス容器に封入した液体電池ではなく、“乾いた電池”は作れないものかと先蔵は考え、まだ見ぬその発明品を「乾電池」と命名。苦労に苦心を重ねた末、明治18年、弱冠21歳という若さで乾電池の開発に成功した。

乾電池の誕生

  • 1885年(明治18年)- ドイツのカール・ガスナー (de:Carl Gassner) がドイツで乾電池の特許を取得(生産開始は1888年)。小型湿電池の性能に不満を抱いた日本の時計技師屋井先蔵が、より取扱いが簡素でまた日本の寒冷地でも使用可能な時計用小型一次電池「屋井式乾電池」を作る。
  • 1888年(明治21年) – デンマークのウィルヘルム・ヘレンセン(en:Wilhelm Hellesen)が乾電池の特許を取得。
  • 1892年(明治25年) – シカゴ万国博覧会に帝国大学理学部が地震計を出展する。これに使用した屋井式乾電池がアメリカ企業に模倣され、翌年には「Dry battery」という模倣品が舶来品として日本に逆輸入された(当時の日本は「日本が外国から取るものは多くても外国が日本から取るものは少ない」との考えに立って法律を作っていた[8])。
  • 1892年(明治25年) – 日本の乾電池の特許の第一号が高橋市三郎によって取得される(第2062号)。その後屋井先蔵も金銭難から出願できずにいた乾電池の特許を出願・取得(第2086号)

大正4年『シャープペンシル』早川徳次

『シャープペンシル』早川徳次シャープペンシルの原型はイギリスで19世紀に開発されたが、ブリキで錆びやすく実用的とは言い難い代物だった。それに代わる金属製シャープペンシルを開発したのが、現在のシャープ株式会社を創業した、当時22歳の早川徳次だった。真鍮の一枚板を円筒状にして先を細め、そこに螺旋状の溝を掘って細い芯が繰り出される独自の繰り出し機構を開発した。

大正15年/昭和元年『ブラウン管テレビ』高柳健次郎

『ブラウン管テレビ』高柳健次郎1920年当時は機械式テレビと呼ばれていて画像の鮮明度は低いものだった。高柳健次郎がテレビの研究に入ったのは1923年で最初は機械式テレビの研究をしていたが、機械式テレビの限界を感じ、ブラウン管に着目、これを使えば受像が可能ではないかと考えた。1926年12月、ついに世界最初の電子式テレビが完成し、映像実験では、片仮名の「イ」の字が見事にブラウン管に黒々と浮かび上がった。

大正15年/昭和元年『八木アンテナ』八木秀次

『八木アンテナ』八木秀次このアンテナが発明される発端は当時八木、宇田が所属した東北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。実験中に電流計の針が異常な振れ方をするので原因を探求したところ、実験系の近くに置かれた金属棒の位置が関係していることが突き止められた。ここからこのアンテナの基本となる原理が発見され、1926年に八木の出願により特許権を得た。

昭和25年『胃カメラ』宇治達郎・杉浦睦夫・深海正治

『胃カメラ』宇治達郎・杉浦睦夫・深海正治1950年10月28日に東京大学医学部附属病院分院の副手だった宇治達郎とオリンパス光学工業(現・オリンパス)の杉浦睦夫、深海正治が、きわめて小さなカメラ本体及び光源(超小型電球)を軟性管の先端に取り付けた「ガストロカメラGT-I」を完成させた。

最新技術

自走機構 (相対螺旋式・キャタピラ式)

カプセル内視鏡の自走機構は、全方位誘導システムと同様、カプセル内視鏡を思いのままにコントロールするシステムですが、磁場のような外部からの力を利用するのではなく、カプセル自体に移動する機能を搭載することができないかというテーマで取組んでいる技術です。
例えば、相対螺旋式はカプセルの外周に螺旋状の突起を設け、カプセルを回転させることで前後方向に推進力を得る原理で、キャタピラ式はカプセルの外周に複数のキャタピラを取り付けて消化管の内壁を自在に移動可能にするという原理です。

実用化されたカプセル内視鏡の概要と課題

オリンパスの小腸用カプセル内視鏡は、超小型撮像素子を内蔵した外径11mm、全長26mmのカプセル型をしています。
低消費電力での撮影機能と無線送信技術が搭載されています。口から飲み込んだカプセル内視鏡は消化管の蠕動運動によって消化管内部を移動してゆき、内蔵されたカメラが撮影した画像を体外に送信し画像診断をおこないます。

カプセル内視鏡には、内蔵されたバッテリーのパワーと作動時間の問題、見たい部位への誘導が不可能なことなど課題も残されています。
これらの問題を克服し、現在普及しているチューブ型の内視鏡の機能に近づくのはまだまだ将来のことになりますが、さまざまな研究開発が進められています。

薬液放出・体液採取機構

通常の内視鏡と同様に、カプセル内視鏡にも治療ができることが期待されています。オリンパスでは、カプセル内視鏡に内蔵した小型開閉弁を体外から通信で制御して内蔵したバルーン内部の液体を放出することにより、任意の位置/タイミングで薬液を放出したり、体液を採取する技術の開発に取り組んでいます。

昭和30年『電気炊飯器』三並義忠

1955年『電気炊飯器』三並義忠「電気を使用して飯を炊く」と言う発想自体は1930年代から存在するが、最初に実用的な電気炊飯器を発明したのは、東京の町工場である「光伸社」の三並義忠である。釜を三重化する方法を採用することで、実用的な炊飯が可能となった。

昭和31年『折る刃式カッターナイフ』岡田良男:オルファの創業者

1956年『折る刃式カッターナイフ』岡田良男1950年代、印刷所などで紙を切る作業は、ナイフやカミソリを使っていた。 ある小さな印刷工場で働いていた岡田良男は「いくら切っても切れ味がいいものがあれば」と考えた。 1956年、ガラスの破片と板チョコからヒントを得て、刃先をポキポキ折ることで最後まで切れ味を持続させる方式を考案。世界初「折る刃式カッターナイフ」が誕生した。

昭和33年『インスタントラーメン』安藤百福:日清食品の創業者

1958年『インスタントラーメン』安藤百福自邸の裏庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始めるが、即席性と保存性の確保、大量生産する技術を手に入れるため、失敗をくりかえす。ある時、妻が天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を発明する。1年間かけて開発に成功した安藤は、1958年8月25日に世界に先駆けてチキンラーメンを発売した。

昭和35年『シュレッダー』高木禮二:明光商会の前社長

1960年『シュレッダー』明光商会高木氏はコピー機の販売セールスマンを経て、現像液販売会社を経営していた時代に、不用書類の処分の際に、紙をうどんのように細長く切断することを考えついた。そして製麺機をヒントにシュレッダーを開発した。

昭和39年『新幹線』国鉄

1964年『新幹線』国鉄新幹線計画の中心人物の一人、三木忠直は戦時中爆撃機の設計を行っていた航空技術者だった。「飛行機」の理論を「鉄道」に持ち込み、「夢の超特急」を設計した。 1964年(昭和39年)10月1日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業した。

新幹線の本体価格

JR東海・JR西日本のN700系(東海道新幹線・山陽新幹線)の場合、1両で2億5000万円、16両編成を実現するのであればおよそ40億円

維持費・運行費など諸々の条件を無視し、純粋に運賃だけを考える、という乱暴な仮定をすると、東京~大阪間を13万8409回往復すれば元が取れる計算になります(のぞみ指定席で計算)

昭和39年『光ファイバー』西澤潤一

1964年『光ファイバー』西澤潤一1964年、西澤潤一は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束型光ファイバーの概念を特許出願により提案し、自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性について言及した。しかし特許庁は意味がわからないと不受理にした。

  • 宮城県仙台市出身。西澤恭助(東北帝国大学教授)の長男として生まれる。
  • 渡辺寧に師事、半導体研究の黎明期から従事し数多くの成果を上げ、「ミスター半導体」とも呼ばれる。
  • 若い頃はその着想が先進的に過ぎて理解者に恵まれず、学会での同業研究者からの攻撃や研究資金獲得の困難に見舞われ、西澤のアイデアがアメリカで先んじて開発に成功することも度々であった。

昭和42年『自動改札機』立石電機(現オムロン)

1967年『自動改札機』立石電機(現オムロン)1967年、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)千里線の北千里駅で立石電機(現・オムロン)が開発した定期券専用自動改札機で本格的に採用された。実用化するまでは、駅で乗降客の観察を続け、人の歩くスピードや切符の処理速度を考え、感知センサーや、磁器に情報が書き込まれた切符の開発など多くの発明が盛り込まれた。

昭和43年『レトルト食品』大塚食品

1968年『レトルト食品』大塚食品1968年2月、大塚食品が世界初の市販レトルト食品『ボンカレー』を阪神地区で限定発売した。関連会社の大塚製薬が持っていた点滴液の加圧加熱の殺菌技術を応用することで、他社に先駆けて開発に成功したといわれている。

昭和46年『カラオケ』井上大佑

1971年『カラオケ』井上大佑バンドマン出身の井上大佑は、カラオケ関連サービスと専用装置を1971年に発明した。井上は8トラック再生機に、予め用意された調やテンポから選択して再生、歌唱できるテープを添付し、「8 Juke(エイトジューク)」と名づけてリース販売した。

昭和51年『VHS』日本ビクター

1976年『VHS』日本ビクター1976年10月31日に日本ビクターがVHS第1号ビデオデッキを発売した。1977年には松下電器産業が普及型のVHSビデオデッキ「マックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。

昭和54年『ウォークマン』ソニー

1979年『ウォークマン』ソニー1979年にウォークマン1号機「TPS-L2」が発売された。2人が同時に聞けるようにヘッドホンジャックは2つあり、オレンジのボタンを押すと内蔵マイクを使って会話が出来たりと先進的な機能が付いていた。「音楽を携帯し気軽に楽しむ」という新しい文化を創造し、小型化・軽量化・薄型化を限りなく追求した。

昭和55年『ウォシュレット』TOTO

1980年『ウォシュレット』TOTO1964年、TOTOはアメリカン・ビデ社が痔の患者さん用に開発した医療用便座“ウォッシュ・エア・シート”の輸入販売をはじめた。300人以上分の肛門の位置データを集め、快適なお湯の温度も0.1度ずつ試し、お湯を出す角度も1度ずつ試した。こうして試行錯誤が繰り返され、1980年温水洗浄装置つき便座「ウォシュレット」が販売された。

変わったところでは平成8年に和式便器用の機種(ウォシュレットW)も発売されていた。しかし、和風便器では温水が命中しないなどで使用しにくいことや洋風便器への移行が進んだことから普及せずに2003年頃に生産が終わった)。一方で、旅行先などで使用できる携帯タイプは現在も発売されている。

昭和56年『カーナビゲーション』ホンダ自動車

1981年『カーナビゲーション』ホンダ自動車ホンダは透明フィルムに印刷した地図シートを5インチの白黒ブラウン管にセットし、光の点で現在位置を表示する独自システムを開発し、1981年に「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケーター」を発売した。

昭和59年『フラッシュメモリー』舛岡富士雄

1984年『フラッシュメモリー』舛岡富士雄舛岡氏は東芝時代にDRAM開発のプロジェクトに入り、市場規模が大きい半導体メモリーを作ることができないか研究を開始する。情報を1ビットごとではなく一括消去するという、あえて性能を落としてコストを4分の1以下にする方法を思いつき、フラッシュメモリが発明された。

昭和63年『CD-R』太陽誘電

1988年『CD-R』太陽誘電1985年、光ディスクの開発を始めた太陽誘電は、当時ブレイクし始めていた「CD規格」に関心があり、12cmという大きさとCDの信号フォーマットで開発を進めていた。CDプレイヤーで再生できる書き込み型ディスク開発は難航したが、反射率が高い「金」を用いることでようやく実現した。そして1988年9月に世界初のCD-Rを発表した。

音楽用

音楽専用CD-R/RWレコーダー用のメディアで、データ用との違いは、判別信号 (Disc Application Code) が記録されており、レコーダー側で識別できるようになっていること(音楽用のデータ用への流用は出来るがこの逆は出来ない)と、私的録音補償金が上乗せされていることである。多くのCDプレーヤーの時間表示はそもそも100分以上を想定していないため、表示限界までの99分59秒がCD容量の限界として認識されたと考えられる。かつてはDouble Density CD-R 1.3GBで120分を詰め込むことも考えられていたが、全く普及しなかった。

私的録音録画補償金制度(してきろくおんろくがほしょうきんせいど)とは本来、私的使用を目的とした個人または家庭内での私的複製については、著作権法でも認められてきたが、デジタル方式で録音・録画する場合に於いては、一定の割合で補償金を徴収し、著作権権利者への利益還元を図ろうとするものである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました