堺市の地名あれこれ

地名には、それぞれ名づけられたわけがあり、それによって、その土地の歴史や文化を知ることができます。昔、堺は、和泉、摂津の境にあったことから、「さかい」と名づけられました。

中区編

泉北高速鉄道深井駅を中心とした中支所区域は、奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)にゆかりのある地名が数多くあります。行基は堺の家原寺(えばらじ)で生まれました。15才で出家し、一生を民間布教と社会事業にささげました。

八田(はんだ)
 行基の母は、蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)といいました。この蜂田首(はちたのおびと)という一族が、この辺りに住んでいたといわれています。蜂田氏の祖先をまつっているのが、「お鈴の宮」と呼ばれている八田寺(はんだいじ)町の「蜂田神社」です。行基が建てたといわれる蜂田寺(華林寺)も、鈴の宮の近くにあります。蜂田がなまって八田と呼ばれるようになったといわれています。

深井(ふかい)
 行基がこの地に深い井戸を掘ったことにより、人々の生活が豊かになったといわれています。そのことから地名は深井と呼ばれるようになったといわれています。行基の掘った井戸は、単に飲む水だけでなく、どんな病気にもよく効くといわれ人々から大変ありがたがられました。その井戸は、善福寺(深井清水町)の裏の井戸であるとも、深井中町の外山家の井戸であるともいわれています。現在では、残念ながら両方とも埋められています。

土塔(どとう)
 行基は一生の間に49のお寺を建てたといわれています。その一つに土塔町の大野寺があり、国の史跡になっている仏塔(土塔)があります。塔といえば、五重の塔などをすぐ思い浮かべますが、塔はもともと仏教を広めた釈迦(しゃか)の骨を埋めたお墓(ストゥーパ)です。仏教が中国に伝わったとき、このインドのストゥーパを漢字で卒塔婆(そとうば)と訳しました。
これが「塔婆」となり「塔」とだんだん簡単に呼ばれるようになりました。
さて、大野寺跡の土塔は、土のブロックを13層に積み上げた、ピラミッド形の大変珍しいもので、少なくとも国内では例がないといいます。この珍しい土塔が地名になりました。

新家町
1943年に東百舌鳥村土師・土師新田・百舌鳥東之町・百舌鳥金口町が一緒になり名称変更される。
1992年、百舌鳥梅町4、土師町、新家町の各一部が学園町に改められる。
1997年、中百舌鳥町7の全部及び中百舌鳥町6、金岡町、野尻町、新家町の各一部が白鷺町1丁目~3丁目として名称変更となる。

東区編

古墳時代から須恵器(すえき)の生産が行われ、中世は、その技術を生かした「河内鋳物師」(かわちいもじ)として知られる金工地帯として栄えました。近世以降は河内木綿の栽培や緞通の生産と、常に時代のニーズに合わせた特色ある産業・文化を育んできました。
 昭和に入り、南海高野線沿いのベッドタウンとして大きく変貌しましたが、かつては狭山池の利水による、「条里制(じょうりせい)」、「荘園(しょうえん)」の名残をとどめる美しい田園地帯が続いていました。

日置荘(ひきしょう)
日置荘北町の東池、西池などに古代条里制の「地割」の形状が残っています。
日置荘の地名は、古代、太陽神の祭祀をもって大和政権に奉仕していたといわれる、「日置部(ひきべ)」集団の居住地であり、また、中世には興福寺の荘園であった「日置荘」がおかれたことに由来するといわれています。
明治時代に萩原天神に合祀されましたが、日置荘西町に日の神をまつってきたといわれる「日高宮(日高神社)」がありました。西村(現在の日置荘西町)の庄屋、日置家19代目、日置正美が村人とともに日高宮に献灯した、「日置里常夜灯」がわずかに残り、往時の面影をしのばせます。
明治22年、新しい町村制ができて、北、原寺、西、田中新田の村々が合併しました。この辺りは、むかし日置氏の荘園であったことから、合併のとき日置荘と名づけられました。

野田(のだ)
北野田に「二の坪、三の坪」など古代条里制の名残の小字地名が見られます。
野田の地名は、古事記に見える「多遅比野(たじひの)=堺市東部から美原町、羽曳野市にまたがる広い地域」の原野の意味である、「野」に由来すると考えられています。
北野田駅南側に、「野田城址」があります。野田城は、南北朝時代、野田荘の地頭をしていた野田四郎正勝が築いた城で、南朝方の楠正成に従って、幕府軍とよく対峙しましたが、三代目正康のとき、この地で敗れ戦死し、多くの村人も犠牲になったといわれています。これらの人々を弔うために建てられた、「大悲庵(大悲寺)」が南野田にあります。
昭和26年に登美丘町となるまで、野田村となっていました。現在は北野田、南野田の地名が残っています。

登美丘
昭和25年4月に野田村と大草村が合併、合併委員会が新しい町名を募集したところ野田村字西野の木村亀次さんの名づけた登美丘町に決定しました。この辺りは、江戸時代の元禄の頃から新田開発が行われ、丘陵地の景色の良い所で、この丘に登ると眺めも心も美しくなるとの意味がこめられていました。

白鷺
昭和40年頃に団地が造成されましたが、それまでこの辺りは、田ばかりで、高野線の電車に乗ると、青々とした田に白鷺が舞い降りて美しい風景でしたから白鷺団地と名づけられました。

南八下
明治22年に新しくできた町村制によって八上郡の小寺、大饗、石原、菩提、野尻、石原小寺錯雑地、大饗菩提錯雑地の村々が合併しました。八上郡の下にできた村ということから「八下」、南にあるから「南八下村」となりました。

西区編

古くは四ツ池遺跡に見られるように縄文時代から弥生時代に集落が形成され、近代では石津川流域で、伝統産業である和晒(わざらし)の製造が行われるとともに、白砂青松(はくしゃせいしょう)の自然海岸を有していた浜寺地区などは、関西一円からの人々で賑わいました。
伝統行事として、大鳥神社の「花摘祭」、家原寺の「大とんど」などが知られています。

鳳(おおとり)
むかしは「大鳥」と書きました。「日本書紀」にも見える古い地名で、古代から近代まで西支所区域はもとより、現在の堺市域のほとんどは、和泉国大鳥郡が占めていました。長く「大鳥」の字を使っていましたが、明治中期に大鳥村は「鳳」村に、その後大鳥郡も泉北郡に変わり、現在の鳳各町に引きつがれています。地名は、大鳥連(むらじ)という豪族がこの地に住んでいたことに由来すると考えられています。
地域の中心に、和泉一の宮といわれる大鳥神社(鳳北町1丁)があり、大鳥氏の祖先をまつってきたといわれています。広い境内にはたくさんの樹々が生い茂り、古くから「千種(ちぐさ)の森」と呼ばれ親しまれてきました。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、伊勢で病没した後、白鳥となってこの地に舞い降りたので、社を建ててまつったとの伝説も残っています。

浜寺(はまでら)
音にきく 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)
これは百人一首の中の歌ですが、むかしは堺の浜寺から高石までの海岸を、高師の浜と呼び、「万葉集」にもよまれた、松林の美しい海岸線が続いていました。
南北朝時代に、この地に三光国師が、大雄寺(だいゆうじ)という七堂伽藍の大寺院を建てました。この寺は、「高師の浜の寺」と呼ばれていましたが、「浜の寺」、「浜寺」と簡略化され、地名になりました。大雄寺は中世の戦乱のため焼失しましたが、南海電車の伽羅橋(きゃらばし)駅周辺にあったと考えられています。

石津(イシヅ)
紀州街道に、石津太神社があり、この神社の祭神で一般に戎神といわれる蛭子命が、三歳の時、葺船に乗せられ流され漂着したのが、この浜で、その時命が固く手に握っていた五色の石から、石の着いた津(津とは一般に港など船着場と言われています。)という事で、石津という地名になったといわれています。また、もう一つの説に、古代讃岐の国から石を運んでこの地に陸揚げしたので、石の津になったという説もあります。

鳳(オオトリ)
大鳥神社から推察されますが、大鳥と書かず鳳の字が使われているのは、奈良時代の名僧行基がここに神鳳寺というお寺を建てたので、その中の鳳の字を使うようになったものです。

浜寺(ハマデラ)
南北朝時代に臨済宗の僧「孤峯覚明」(のちに後村上天皇から三光国師の号を授かる)が、この地に大雄寺を建てました。当時吉野の日雄寺を「山寺」と呼ぶのに対し、大雄寺を「浜の寺」と呼び、それが浜寺になったのです。

家原寺(エバラジ)
奈良時代の名僧行基がここに建てた家原寺の寺名をとってつけられたのですが、家原寺の寺名についても、行基が自分の家を原(もと)に建てたから家原寺とつけられたという説や、この地方に家原姓を名のる者が多かったからだという説、更に原というのは、この地域の当時の呼び名で、自分の家と地名の原をあわせて家原寺とつけられたという説等、諸説があります。

津久野(ツクノ)
むかしは、「踞尾」と書かれていました。読みにくいということから「津久野」の文字が使われました。地名の起源は、大昔この付近まで海で、「塩つく野原」であったことから「つくの」と呼ばれるようになったという説、神功皇后が朝鮮から帰還された時、この地に上陸したことから「つく(着く)王」になった説、皇后がこの地でつくばわれたので「踞尾」になったという説、また、仁徳陵、履中陵、反正陵などの造営に際し朝夕礼拝するのに蹲踞の礼をもってしたので「踞尾」となった、すなわち「つくばい」が転じて「つくの」になったという諸説があります。

浜寺昭和(ハマデラショウワ)
昭和時代に入り、交通の発達などから住宅化が進み、浜寺に新しく昭和町が誕生しました。堺市に合併後の昭和18年に、浜寺町大字船尾から浜寺昭和町1丁がうまれ、浜寺町大字下から浜寺昭和町5丁までの町名が誕生しました。

南区編

泉北ニュータウンを中心とする市街地と、その周辺の農業振興地域及び森林地帯からなっています。
泉北ニュータウン造成のとき、500以上もの窯跡(かまあと)や、おびただしい数の須恵器(すえき)が発見されました。須恵器は瀬戸、信楽、備前など、よく知られた陶器の源流ですが、泉北丘陵はわが国の須恵器発祥の地として知られています。

5世紀に、朝鮮半島からの渡来人によって、それまでの赤茶色のもろい土器とは違い、ロクロを使い、窯で高温に焼く、灰色で硬い土器、須恵器を作る技術が伝えられました。日本で須恵器が作られ始めた頃の窯跡は、西日本各地でも見つかっていますが、400年以上にもわたり焼き続けられたのは、堺の泉北地域だけです。

『日本書紀』に見えるこのあたりの地名である「陶邑(すえむら)」から陶邑窯跡群と名づけられたこの遺跡は、800基近くの窯跡がある、日本最大級の須恵器生産の遺跡です。付近には、「陶器」の地名もありますが、この地には須恵器生産にまつわる地名が数多く残っています。

片蔵(かたくら)・富蔵(とみくら)・高蔵寺(たかくらじ)
石津川の上流に位置するこのあたりは、陶邑窯跡群の中心にあたり、須恵器製品や資材・燃料の運搬に最適の立地でした。この付近に建てられたと考えられる、須恵器製品の貯蔵のための倉庫群、「くら」が地名の由来になったといわれています。一説によると、日本書紀に見える「桜井屯倉(みやけ=大和朝廷直轄の倉庫)」は、片蔵の桜井神社の付近ではないかと考えられています。また、高倉寺(高倉台2丁)はもともと「大修恵院(だいすえいん)」、「陶(すえ)の寺」といい、須恵器との深い関わりがうかがえます。
※高蔵寺(町名)は大部分が高倉台に変わりました。

釜室(かまむろ)・岩室(いわむろ)
「室(むろ)」というのは、山の岩間の洞穴のことで、「蔵」の意味もあります。須恵器製品などを、室に保管したのではないかと思われます。また、釜室の「釜」の字は「窯」の意味ももっており、内部が室になった須恵器窯そのものを示す地名とも考えられます。

北区編

日本最古の国道といわれる、竹内街道沿いに集落が形成されるとともに、ニサンザイ古墳をはじめとした数多くの古墳や重要文化財に指定された民家など、歴史的文化的遺産も豊富です。また、伝統行事の百舌鳥八幡宮のふとん太鼓は広く知られています。

百舌鳥(もず)
百舌鳥の地名は「百舌鳥古墳群」の名で、全国的によく知られています。
日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません。

「もず」の字は「万代、毛受、毛須、裳伏、藻伏」とも書かれてきました。

金岡(かなおか)
昔、このあたりに、河内画師(えし)と呼ばれる、宮廷画家集団が住んでいて、奈良の大仏殿に絵をかいたり、彩色をしたりして活躍していました。
その中から、当時唐風(中国風)一辺倒だった絵画界に、独創的な画風で新風を吹きこんで、後の「やまと絵」成立のさきがけとなった人物、巨勢金岡(こせのかなおか)が生まれたといわれています。
金岡の地名は、この平安時代の画家、巨勢金岡の偉大な業績をたたえ、彼の没後、金田三所宮に祭神として加え、神社名も金岡神社と改称したことに由来するといわれています。
また一説に、昔、このあたりは、鋳造や鍛治を業とする「金屋」集団の居住地であり、多くの鋳物かすが田んぼからでてきて、金田(かなた)と呼ばれていたものが金岡になったともいわれています。

我が国では、明治二十二年(1889)に町村制がしかれましたが、その時に金田村と長曽根村が合併し、村の名前は金田村にある金岡神社にちなんで金岡村と名づけられたそうです。しかし、古来堺は刃物と鉄砲で有名ですが、その源は丹南の鋳物師集団です。この地はかつての丹南鋳物師の居住地であり、村名が金田村であり、更には付近に黒土・日(火)置・丹冶比など、鍛治に関係の深い地名が多いことから『金の岡』と名づけられたというように、金岡の地名の由来を考えるべきではないかという説もあります。

五箇荘
五箇荘には、六の坪・二十の坪などの小字の地名が残っていますので、歴史は古く、条里制がしかれた頃から開けたところだと推測されます。即ち、大化の改新のときに設けられた口分田のあとが伺えます。また平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社や貴族と結んだ荘園が堺でもふえました。八田荘・日置荘などがその例で、五箇荘には当時五つの荘園があったところから五箇荘という地名が誕生したと言われています。

南花田・北花田
遠里小野(江戸時代に大和川の水路が付け替えられて、大阪と堺が分断されたので、現堺と大阪の両市に遠里小野があります。)から五箇荘にかけて、灯油などの原料に使われる『あぶらな』『えごま』の栽培が中世から近世にかけて盛んに行われました。そのためこの周辺は、開花期には一面に見事な花盛りになったそうです。それで『花田』と呼ばれるようになり、この花田へ通じる入口を花田口とつけられ、更にその道路が花田口筋と呼ばれるようになったそうです。

東浅香
浅香山稲荷の由緒書から調べてみると、推古天皇(五九二から六二八)の時代のこと、聖徳太子がこの地方を巡遊された折、白髪の老翁が太子に、『昔より此処に埋まる香木あり』と告げて去りました。太子が不思議に思い掘らせたところ、古い朽木が出てきました。これを焼かせてみると、芳香がたなびき、太子が『浅からぬ香り』と言われたことから、当地を『浅香』と呼ぶようになったと書かれています。

八下
明治二十二年の四月一日に新しくできた町村制によって、南河内の八上(矢が見)郡の南花田・中・野遠・河合の村々が合併して北八下村となり、大饗(おあい)・石原・菩提(ぼだい)・小寺・野尻の村々が合併して南八下村となりました。八上郡の下にできた村ということから『八下』(やしも)というようになったそうです。そして、北八下村は昭和三十二年に、南八下村は昭和三十三年に堺市に合併しました。

東三国
三国丘の地名の由来は、摂津・河内・和泉の三つの国のさかいにある丘ということから名付けられたそうです。『さかい』という地名もこの国のさかいからつけられたそうですが、当時の堺の地域は、律令時代の国郡の制度では、摂津国住吉郡の南部、河内国丹比郡の西部、和泉国大鳥郡の北部で丁度三国丘の位置がその接点だったわけです。東三国丘地名は、三国丘の東に発展した地域からつけられたことは申すまでもありません。

堺区編

古代に仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が築造されるとともに、中世に海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれるなど、歴史的に名高い地域です。また、環濠都市の名残をとどめる、土居川や内川、社寺など豊富な文化的遺産を有しています。

北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)
 旧市の南北端に位置する両町は、「元和の町割り」の際に、縦幅が他の町と比べ小さくなったことに由来するといわれています。

北旅籠町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)
 堺の町の南北の入り口にあたる当地に、旅人宿、旅籠(はたご)があったことに由来するといわれています。

桜之町(さくらのちょう)
 戦国期から見える町名で、桜の木がたくさん植わっていたことに由来するといわれています。

綾之町(あやのちょう)・錦之町(にしきのちょう)
 応仁の乱の兵火を逃れて、京都から優れた技術を持った織物師達が堺に移り住み、この地で「綾織り」、「錦織り」を始めたことに由来するといわれています。

柳之町(やなぎのちょう)
 昔から堺を代表する木である、柳がたくさん植わっていました。

九間町(くけんちょう)
 奈良時代、弘法大師が唐より帰国し、この地に九間四面の堂、今の「九間堂」を建立し布教したことに由来するといわれています。

神明町(しんめいちょう)
 奈良時代初め創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったことに由来するといわれています。

宿屋町(しゅくやちょう)
 旅人の宿場町で、宿屋が多かったことに由来するといわれています。

材木町(ざいもくちょう)
 戦国期から見える町名で、材木商の集住地であったことに由来するといわれています。

車之町(くるまのちょう)
 戦国期から見える町名で、「車屋本」で知られる有名な能楽者、車屋道晰(どうせき)がこの地に住んでいたことに由来するといわれています。

櫛屋町(くしやちょう)
 堺名物、和泉櫛を扱う櫛問屋が多かったことに由来するといわれています。

戎之町(えびすのちょう)
 戦国期から見える町名で、当地にあった戎神社に由来するといわれています。

熊野町(くまのちょう)
 もとは湯屋町(ゆやちょう)といい、湯屋(風呂屋)が多く並んでいたことに由来するといわれています。また一説に、菅原天神の境内で塩風呂を炊きだし、一般の人達に施したことに由来するともいわれています。明治5年に当地にあった、熊野神社にちなみ「熊野」に改字し、読みも次第に「くまの」に変わりましたが、小学校などに「ゆや」の読みが残っています。

市之町(いちのちょう)
 戦国期から見える町名で、摂津と和泉の国境であった大小路筋に面する当地は、堺の町の中心地で、いろいろな「市」が開かれたことに由来するといわれています。

甲斐町(かいのちょう)
 戦国期から見える町名で、神功皇后がこの地に「甲(かぶと)」を納めまつったことに由来するといわれています。

大町(おおちょう)
 富裕者が多く住み、身代の「大なる町」というところから名づけられたといわれています。

宿院町(しゅくいんちょう)
 室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれています。また一説に、昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれています。

中之町(なかのちょう)
 戦国期から見える町名で、昔の堺の町は、大小路筋を境に北荘と南荘に行政区域が分かれていて、当地は南荘の中央に位置したことに由来するといわれています。

少林寺町(しょうりんじちょう)・寺地町(てらじちょう)
 少林寺があること、また、寺地町はかつて少林寺の寺地(境内地)であったことに由来するといわれています。

新在家町(しんざいけちょう)
 南荘にあった本在家町に対し、ニュータウンという意味で名づけられたといわれています。

三宝(さんぼう)
今の大和川は、宝永元年に新しくつくられました。この大和川の運んでくる土砂のために州ができ、宝暦年間に、この地に三つの新田ができました。三つの新田の「三」と、宝歴の「宝」の字を合わせて、「三宝」という地名になりました。

神南辺(かんなべ)
昔、この地に神南辺道心(かんなんべどうしん)が住んでいたことから地名となりました。

錦之町(にしきのちょう)・綾之町(あやのちょう)・錦綾町(きんりょうちょう)
京都の町が、応仁の乱の戦乱で焼野原と化した時、技量のすぐれた織物師が堺へ移住してきて、この地で『錦織り』『綾織り』などをはじめたので、『錦之町』『綾之町』『錦綾町』などの地名がついたと言われています。また、当時堺は外来物資の入手できる貿易港をもっていたので、都の宮人たちが着る高貴な錦に綾の織物を、大陸から伝わった布や技術で織ったところから、この地名が生まれたという説もあります。

柳之町(やなぎのちょう)
昔から堺の町の代表植物といわれた柳の木が、この付近にたくさん植えられていたので、この地名がついたと伝えられています。

北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)
大坂夏の陣で、堺の町が約2万戸焼けましたが、その復興に地割奉行風間六右衛門が活躍します。その町割の時に、南北両端の区画が少し半端になったそうです。それで北と南に半町があると伝えられています。

北旅籠(篭)町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)
昔の堺の町は、南北にそれぞれ本郷と端郷、即ち四つに分かれていたそうです。その端郷が、いつしか旅籠に移り変わったという説と旅宿があったからという説もあります。

九間町(くけんちょう)
大同元年(806年)に、弘法大師が唐より帰国され、その翌年京都に行かれる途中に、この地に四面九間の堂を建立して布教されたので、この地名があると言われています。

神明町(しんめいちょう)
その昔、天保3年(1832年)に、堺港の繁栄を願う商人たちによって、神明神社が建てられたことによりこの地名が残されたと言われています。

宿屋町(しゃくやちょう)
この付近は昔旅人の宿場で、宿屋が多かったことからこの地名がついたそうです。

材木町(ざいもくちょう)
堺は、昔から九州・四国などの材木を港で陸揚げして、各地に運んでいました。それでこの地名がついています。木屋という名前の家が多いのもその名残りです。

車之町(くるまのちょう)
寛永12年(1635年)に亡くなったと伝えられる、能学者の車屋道悦がこの地に住んでいたので、車屋の町ということから、人々は車之町と呼ぶようになったそうです。また、道悦は具足屋を営む傍ら、謡曲本の一派を立てて有名になったそうです。

浅香山(あさかやま)
昔、推古天皇の時、ここは海辺であったと言われています。この海辺に香りのよい木が流れついたので、「香り浅からぬところ」と言うので、『浅香の浦』と呼ばれるようになったと言われています。『浅香山』になったのは、江戸時代に大和川を掘った土で小さな山ができて、浅香山と呼ばれるようになりましたが、今ではすっかりなくなってしまいました。

熊野町(くまのちょう)
熊野をクマノと読むかユヤと読むか種々論議が分かれていますが、もとは湯屋町となっていました。それが、明治5年(1872年)の町名改正の時に、熊野町となりました。字だけ変えたのか呼び名も改めたのか明らかではなく、両方使われています。昔は、湯屋が多く並んでいたところから湯屋町の地名になったと言われていますが、一説には、天神の境内において風呂を炊きだして一般の人々に施したところから、この名がついたとも言われています。

榎(えのき)
昔、このあたりは榎が多く自生していた野原であったことから、名づけられました。

三国丘(みくにがおか)
堺の地名のおこりと同じように、和泉、河内、摂津という三つの国の境にある丘ということから名づけられたそうです。

安井(やすい)
この地域を開発した安井正之という人の名をとって、名づけられました。

少林寺(しょうりんじ)
当地にある少林寺というお寺から名づけられました。このお寺は万年山少林寺といって元徳2年(1330年)、桃源宗悟の開山と伝えられています。最初は、開基の大檀越小林修理亮法の姓をとって『小林寺』と書いていましたが、のちに少の字に改めたのは、菩提達磨の少林寺にならったものです。

大仙町(だいせんちょう)
仁徳陵は大きな山のような御陵だということから、昔は大山陵と呼ばれていました。大山陵が大仙陵になり、この大仙陵のあるところから、大仙町と名づけられました。

湊(みなと)
昔、堺の町は漁港でしたが、その後、貿易港となりました。そのために、漁師の人々がだんだん南の方へ移り、このあたりの海辺に集まるようになって、いつの間にか「みなと」と、呼ばれるようになり『湊』の字で地名がつけられました。『港』は、船が出入りする所という意味ですが、『湊』は水のほとりに人々が集まる所という意味があるそうです。

神石(かみいし)
明治22年4月1日の町村制施行によって、それまでの上石津村と市村と踞尾村の三村が合併しました。踞尾村と市村は神野荘に属し、上石津村は石津郷に属していたことから、神野の『神』と石津の『石』を合わて神石村となりました。しかし、明治24年踞尾村だけが分村し独立しました。その後、昭和13年に神石村は堺市に編入されました。

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