夏の甲子園

8月10日(土)の試合

第1試合

日本文理高等学校(新潟)×関東第一高等学校(東東京)

第2試合

熊本県立熊本工業高等学校 (熊本)×岡山学芸館高等学校(山梨)

第3試合

岡山学芸館高等学校(岡山)×広島県立広島商業高等学校(広島)

夏の甲子園勝利数ランキング

甲子園球場の名前の由来

甲子園という名前は、球場が出来た年の1924年(大正13年)が十干、十二支の最初の「甲(キノエ)」と「子(ネ)」に当たる年だったため「縁起がいい」ということで「甲子」という頭文字を取って「甲子園」という名前になったという話です。

野球場を「甲子園球場(当時は大運動場)と名付けたそうです

「アルプススタンド」の名付け親は漫画家の岡本一平

甲子園球場の高くそびえる内野スタンドを「アルプススタンド」と言います。
1929年(昭和4年)に増設されたものですが、名付け親は漫画家の岡本一平、大阪万博の太陽の塔や「芸術は爆発だ!」で有名な画家・岡本太郎の父上です。
この年、朝日新聞記者として夏の甲子園大会を取材した一平は、高いスタンドを埋め尽くす白シャツのファンに雪を被ったアルプスを重ねてそう名付けたのです。お気に入り詳細を見る
※ただし、ここにもう一つの説があって、一平に同行していた当時18歳の太郎が「アルプスのようだ」と言ったのを、父が頂いたというのです。

高校野球で応援のため甲子園に象を連れ込んだ学校があった

1951年、春のセンバツ大会のこと。
兵庫代表・鳴尾高校の応援団がとんでもないゲストを連れて応援に駆けつけました。
そのゲストとはなんとアフリカゾウ。
甲子園近くの動物園から連れてきて、グラウンドで練習中の選手たちと記念撮影に興じていたのだとか。
もちろん球場に許可もとっておらず、すぐに強制退場させられてしまったそうです。

甲子園の最多奪三振記録保持者は板東英二

1958年に開催された「第40回全国高等学校野球選手権大会」で記録した83個の奪三振記録が今も残っているそうです。

一試合奪三振と大会通算奪三振、両方の記録をなんと50年以上にわたって保持しています。

第40回大会
・2回戦 秋田商 17奪三振(9回)
・3回戦 八女 15奪三振(9回)
・準々決勝 魚津 25奪三振(18回)
・準々決勝 魚津 9奪三振(再試合・9回)
・準決勝 作新学院 14奪三振(9回)
・決勝 柳井 3奪三振(8回)

かつては敗者復活があった

1916~17年の第2回、第3回大会だけ敗者復活できたそう。
1916年(第2回大会)の場合、全国大会に参加は12校。
1回戦の試合数が6試合。2回戦が3試合となると、次のステップに進めるのは3校と端数が生じてしまうということで、1回戦で敗れた6チームのうち抽選で2校を敗者復活として出場させた。
1917年(第3回大会)も12校で開かれたが、この時は抽選による敗者復活が4校となった。
でも、第3回大会で敗者復活した初戦敗退チームが優勝したことで疑問が生まれ、廃止されたんだとか。

真紅の大優勝旗は盗まれたことがある

1954年(昭和29年)夏の大会で優勝した中京商(現 中京大中京・愛知)は、閉会式で受け取った優勝旗を校長室で保管していたが、盗まれた。
高野連で優勝旗を新調しようという意見も出はじめた2月中旬になって、ようやく近くの中学校の床下から発見された。

結局、犯人は分からないままであったが、無事に戻った優勝旗は以後、金庫に保管され、夏の大会の開会式で無事大会本部に返還された。
優勝校に贈られる優勝旗ですが、実は1,000万円ほどの価値があるというのです。
日本の伝統工芸の1つ、西陣織の職人に依頼して優勝旗を作ってもらったそうで、こんなにもお高くなってしまったとか。
元祖優勝旗は第1回大会から39回大会目まで使用され、第40回大会からは2代目の優勝旗が使用されているそうです。

歴史的大差の試合は122点差

1998年7月18日の青森県大会、東義vs深沢の試合。
翌日の日刊スポーツの一面を大きく飾りました。

打者149人、ヒット86、四死球36、本塁打7、三塁打21、二塁打31、盗塁78。三振は僅か1つ。

対する深浦は打者25人がノーヒットで、アウト25のうち三振は16でした。。。

甲子園の土

内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島、岡山、鳥取、大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方が、スタンドの観客にも見えやすくするための配慮である。

当初は淡路島の土が使われていた。土質には研究に研究を重ね、同じ頃に売り出した甲子園住宅地の売価が当時坪あたり40円であった ところ、球場の土には坪あたり50円を費やしたという。

高校野球では出場選手がこの土を持ち帰ることが慣習になっている。

甲子園の土を最初に持ち帰ったのは川上哲治

1937年の決勝戦で敗れた熊本工業の川上哲治選手は「後輩たちの来年の活躍を願い、熊本と甲子園を土で結びつけよう」と考え、甲子園の土を靴下に入れて持ち帰り、熊本工業の練習場に撒いたそうです。

沖縄代表・首里高校は甲子園の土を持ち帰れなかった

沖縄がまだアメリカの管理下にあり、沖縄代表が甲子園に初出場した1958年の夏の甲子園。沖縄代表・首里高校は惜敗し甲子園の土を持ち帰ろうとしましたが、那覇港に到着した際「植物防疫法」に触れるとして”海外の土”である甲子園の土は海に捨てられてしまいました。

なぜ野球は9回まで?

野球は1839年に考案されたスポーツといわれていて当時のルールは、どちらかが21点先取した方が勝者となっていて娯楽性が高く試合終了後には「打ち上げ」の飲み会をするのが常だったんです。

21点先取制だとものすごく早く勝敗が決まることがあったり、逆になかなか試合が終わらなかったり終了時間が読めません。

このルールに悩まされていたのが打ち上げの料理を作るコックたち。一体どのタイミングで料理を用意すればいいのか、毎回悩みの種だったんですね。そしてついに、ニューヨークの野球チーム・ニッカーボッカーズの専属シェフたちからクレームがありました。そのクレームを受け、ある程度終了時間の予測がつけられるようにと回数制が導入されたのです。

野球の誕生から6年後の1845年のことでした。

ではなぜ「9回」なのでしょうか?当時のアメリカでは12進法の影響が強く、12の3/4である9回が採用されたと言われています。たしかにストライクやアウトのカウントも3回です。ちなみに「ボール」は後になって導入されたルールのため4回までとなっていますが、もし当時から存在したルールなら3回までとなっていたかもしれませんね。なぜ回数が12回ではなく9回なのかについて、はっきりとしたことはわかっていないのですが、12回では打ち上げのビールが気になって気になって試合に集中できなくなるからなのかな、なんて思っちゃいました。

なにしろ当時は試合の結果よりも打ち上げの方が大事だったという話もあるくらいですから。

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