水戸黄門

徳川家は水戸藩を納めていたことは周知の通りですが、そもそも「黄門」とはどういった意味なのでしょうか。
黄門は古代中国の「門下省」から来ています。この役所の門が黄色に塗られていたため、門下省=黄門と呼ばれるようになりました。そして日本では「中納言」という役職の仕事内容が、中国の門下省と似ていたため、日本でも中納言=黄門と呼ばれるようになりました。

つまり、水戸藩の中で中納言の役職に付いた人物が「水戸黄門」となるのです。

徳川光圀(とくがわみつくに)
生誕:寛永5年6月10日(1628年7月11日)
死没:元禄13年12月6日(1701年1月14日)
時代:江戸時代前期
改名:長丸、千代松、徳亮、光国、光圀
徳川家康の孫

水戸黄門は7人いた

水戸黄門といえば徳川光圀の別称として有名です。数々のテレビドラマや小説が作成され、今もなお根強く人気の歴史上の人物です。
しかしこの水戸黄門。実は7人いたということは知らない人が多いのではないでしょうか。

水戸黄門になった人物は次の7名です。

  • 徳川 頼房(よりふさ)
  • 徳川 光圀(みつくに)
  • 徳川 綱條(つなえだ)
  • 徳川 治保(はるもり)
  • 徳川 齋脩(なりのぶ)
  • 徳川 齋昭(なりあき)
  • 徳川 慶篤(よしあつ)

なぜ徳川光圀だけが有名なのか

徳川光圀は史書「大日本史」の制作にとりかかるなど、研究や文化財の保存活動など様々な事業を行ったことで、政治にも影響力を持った人物として有名です。
この大日本史作成に必要な情報を各地で集めるために巡業を繰り返したイメージが強いため、光圀だけが注目されてドラマや小説になり現代に語り継がれているのでしょう。

大日本史をつくった

大日本史とは、日本の歴史書です。幕末の思想に大きな影響を与え、歴代天皇をはっきりさせる時にも大きな影響を与えました。
これを作り始めたのが光圀で、この事業は水戸藩で200年以上も続き、明治時代にようやく完成します。
実はこの「大日本史」を作り始めたことが光圀の最大の偉業です。

殉死の禁止

殉死とは、殿様などが死んだ時、殿に仕えていた人が後を追って死ぬことです。それを禁止したのです。
殉死によって貴重で優秀な人材をなくすことが、もったいないからですね。
現代で言うと、部長が死んだら部下が後を追って自殺するといった感じでしょうか。
今では考えられませんが、当時ではこれが美徳とされていて、殉死しないと臆病者、不忠者とまで言われてしまったようです。

蝦夷地の探索

蝦夷地とは現在の「北海道」のことですね。
光圀が海上をぼんやり眺めていた時のこと。北の遠くの方から飛んで来る鳥や雲をみて「あっちの方には国がある!」と確信したのだそう。
そこで船をつくり「蝦夷地探検」をしたとして伝説のひとつになっています。

水戸黄門は江戸から出ていない

徳川光圀は『大日本史』を制作し、水戸学と呼ばれる学問の基礎を作り上げました。他にも仏像の保護や社寺の整理など、様々な分野で功績を残してきた人物です。

ドラマでは、諸国を漫遊しながら悪を成敗していくイメージが強いですが、実際の水戸光圀は全国どころか江戸からすら出たという記録はありません。一番の遠出は、現代の鎌倉までということです。

そもそも水戸光圀は水戸藩第二代藩主であったため、規則により江戸から出ることが許されてはいなかったのです。

日本で初めて〇〇〇を食べたのは水戸黄門だった!?

水戸黄門は歴史や医学に精通しており、幅広い好奇心の持ち主だったようです。「医食同源」を実践していた黄門様は、食に対する興味も大変深く、日本で初めてラーメンを食べた人物といわれています。明の儒学者が献上した中華麺のレシピを会得し、黄門様が自ら凝った麺やダシ汁をこしらえて客人にふるまったという伝記も残っているようです。彼は他にも餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆を日本で初めて食べたといわれています。

生類憐みの令への反対

生類憐みの令とは?

徳川第5代将軍、綱吉は「悪政」として名高いとされていた。
特に「生類憐みの令」では、生き物を大切にすることから、生き物を殺していけないという、命が下った。特に綱吉は「戌年」生まれということもあり、犬を大事にすようにと命を出す。

しかし、これが次第にエスカレートしいき、生き物すべての殺傷を禁止していくことになっていく。

「生類憐れみの令」は1回だけではなく135回も出された。綱吉が死ぬまで24年間に渡り続けられることになる。
犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などまでに及んだ言われている。

対抗策として

それに対抗してか、光圀はこの令は撤回すべきと反対し、光圀は牧場で焼き肉を食べるなど、綱吉に抗議している。

また光圀は、虐殺した犬の死体を持っていき、ショックを与えた上で、直ちにこの悪法を改めるように諫(いさ)めた。
しかし、綱吉は光圀の言う事を聞くことはなかった。

時代劇だからこそ起こるまさかのクレーム

1969年8月4日にスタートした水戸黄門は、2011年12月19日の最終回を迎えるまでに述べ1227回の放送回数を重ね、そのシリーズは43部にものぼります。最高視聴率も40%を超え、絶大な人気を誇りました。

ドラマは1話を数回に分けて放送したりして、次週の放送が待ち遠しくなり、視聴率のアップが期待される手法でしたが、視聴者からのあるクレームがきっかけでした。

そのクレームとは「お年寄りは来週も生きていられるか分からない」という極度な自虐的なものでした。この事から1話完結型へと戻し、最終回までそのままのかたちで放送し続けたということです。

マイク眞木が水戸黄門の末裔!

マイク眞木さんといえば、歌手で俳優。今ではイケてるおじさまです。

その方が実は、水戸黄門さまの末裔だったのですね。これは本当に本当の事で、ちゃんと徳川家の系譜やお墓などを調べたのだそうですよ。

マイク眞木

マイク眞木(マイク まき、1944年4月27日 – )は、日本の俳優、フォーク歌手。本名、眞木 壮一郎 (まき そういちろう)。真木と表記される場合もあるが、正確には眞木である。日本大学藝術学部放送学科卒業。赤坂 (東京都港区)出身。

先祖の真木景信は水戸藩に家禄三千石で仕え、その妻は藩主である徳川頼房の十女で徳川光圀の妹にあたる千姫であることがテレビ番組『私の何がイケないの?』での検証で明らかになった。

本籍地が茨城県水戸市である縁で、水戸大使も務めている。

画像

1枚目:水戸光圀 / 2枚目:マイク眞木(若いとき)
3枚目:現在のマイク眞木

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