山下清 [3月10日]

山下 清(やました きよし、1922年(大正11年)3月10日 – 1971年(昭和46年)7月12日)は、日本の画家。

後遺症による障害

東京府東京市浅草区田中町(現: 東京都台東区日本堤一、二丁目辺り)に、大橋清治・ふじの長男として生まれる。翌年に関東大震災によって田中町一帯が焼失すると、両親の郷里である新潟県の新潟市(現: 中央区)白山に転居する。その2年後の3歳の頃に重い消化不良で命の危険に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患う。

母の再婚

脳出血で父の清治が1932年(昭和7年)に他界すると、母ふじは再婚する。その再婚相手は、小学校(石浜小学校)でいじめられたことを話す清に「刃物で相手を怪我させろ」と唆す養父で、いじめに遭った際に鉛筆削り用の小さなナイフを手に持つようになってしまった清は、同級生に大ケガをさせた事がある。

ちぎり紙細工との出会い

知的障害児施設(清が入園した当時は救護法下の救護施設)「八幡学園」へ預けられる。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会う。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年(昭和11年)から学園の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層開花していった。

個展の開催

1937年(昭和12年)秋には、八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早稲田大学講師戸川行男により早稲田大学で小さな展覧会が行われたほか、1938年(昭和13年)11月には同大学の大隈小講堂にて「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示された。
そして1938年(昭和13年)12月に、東京市京橋区銀座(現: 中央区銀座)の画廊で初個展を開催、1939年(昭和14年)1月には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びた。梅原龍三郎も清を高く評価した一人であり、「作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と評価していた。

兵役免除のための放浪

八幡学園での在籍期間は長かったものの、18歳の時に突如学園を後にし、1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)まで放浪の旅へと出て行った。後年、この時に脱走した理由を訊ねられても、ただ「イヤになったから」としか答えていないという。脱走の翌々年、受けることになっていた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けた。我孫子の弥生軒で住み込みで働いていたのもこの頃で、半年ごとに放浪しては戻ってくる事を5年ほど繰り返したという。
21歳の時、食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、無理やり徴兵検査を受けさせられたが、知的障害を理由に兵役免除となる。この記録は『放浪日記』(1956年(昭和31年))にまとめられた。なお、この時のいでたちとして、リュックサックを背負う姿がテレビドラマなどで描かれている。

戦後の活動

戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた。1954年当時、鹿児島を放浪中に清は「ゴッホもルソーも全然知らない」と言っていたが、以前にゴッホの模写などはしており、同年、東京に戻ってからは日本橋丸善で開催されていたゴッホ展を訪れている。1956年(昭和31年)の東京大丸の「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えた。大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れた。1961年(昭和36年)6月、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。

脳出血で死去

晩年は、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けた。およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。ただし、高血圧による眼底出血に見舞われ、その完成は危ぶまれていた。
1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のため49歳で死去した。当時、我孫子の弥生軒からの依頼で、描いていた四季をテーマにした4種類の弁当(駅弁)の包装紙のうち、冬のモチーフのものは描かれず、3種類しか作成されなかった。墓所は富士霊園。

うんちく

贋作

その人気の高さや、所属していた画壇がなかったためにその作品を鑑定できる者がいないこと、各地でお礼のために作品を残したというテレビドラマの描写の影響から、贋作を本物と偽った展覧会などが開催されることがある。実際には貼り絵はほとんど学園や自宅で制作していて、遺族が保管している。

瞬間記憶能力

清は驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。海外の研究者などの中には、清の持つ軽度の知的障害と結びつけサヴァン症候群だったのではないかと考えられている。
とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』などがある。しかし、実際はドラマや映画とは違って旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に描くというスタイルだった。

サヴァン症候群

イギリスの医師ジョン・ランドン・ダウン(英語: John Langdon Down)は1887年、厖大な量の書籍を一回読んだだけですべて記憶し、さらにそれをすべて逆から読み上げるという、常軌を逸した記憶力を持った男性を報告した。その天才的な能力を持つにもかかわらず、通常の学習能力は普通である彼を「idiot savant」(イディオ・サヴァン=賢い白痴【仏語】)と名付けた。

ただし、彼が自閉症の診断基準を満たしている記述は論文には存在しない。論文上には「他の学習能力は通常である」と記載があるのみである。後に”idiot”が差別的な意味を持っていることから、「サヴァン症候群」と改められた。

原因

サヴァン症候群の原因は諸説があり、特定には至っていない。実際、症例により、各々メカニズムがことなり、同じ症例は二つとないという考えもある。脳の器質因にその原因を求める論が有力だが、自閉性障害のある者が持つ特異な認知をその原因に求める説もある。コミュニケーション障害・自閉性障害のある者の全てがこのような能力を持っているわけではない。自閉症と同様、男女比は男性が女性の数倍である。

広義には、障害にもかかわらずある分野で他の分野より優れた(健常者と比較して並外れているわけではない)能力を持つ人も含めることもある。また、いわゆる天才や偉人の多くは円満な人格者ではなく、中には日常生活に支障が出る症状の人、時にコミュニケーション障害・自閉性障害に近い症状の人もおり、それがさらに極端になって「紙一重」を超えたのがサヴァン症候群だという見方もある。

能力の例

ランダムな年月日の曜日を言える(カレンダー計算)。ただし通常の計算は、1桁の掛け算でも出来ない場合がある。
(ただし簡単なカレンダー計算は軽度知的障害がある自閉症の10人に1くらいはできるとされているのでほとんどの場合はサヴァンではない)

  • 素数と約数を瞬時に判断できる。
  • 航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起こすことができる(映像記憶)。
  • 書籍や電話帳、円周率、周期表などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。
  • 並外れた暗算をすることができる。
  • 音楽を一度聞いただけで再現できる[1]。
  • 語学の天才で数カ国語を自由に操る。
  • この他にも様々な能力(特に記憶に関するもの)がみられるが、対象物が変わると全く出来なくなってしまうケースがある(航空写真なら描き起こすことができるが、風景だとできない、など)。

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