忠犬ハチ公

忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約10年間のあいだ待ち続けたという犬である。犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、名前はハチ。ハチ公の愛称でも呼ばれている。

渋谷駅前にはハチの銅像が設置されており、この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。

忠犬ハチ公の日(4月8日 記念日)
忠犬ハチ公銅像及び秋田犬群像維持会が制定。ハチ公の命日は3月8日であるが、1ヵ月後の4月8日をハチ公の日とした。

忌日
1935年3月8日 – 忠犬ハチ公、忠犬として知られる秋田犬(* 1923年)

ハチの生涯

生誕

ハチは1923年(大正12年)11月10日、秋田県北秋田郡二井田村(現・大館市)大子内の斉藤義一宅で誕生した。父犬の名は「オオシナイ(大子内)」母犬の名は「ゴマ(胡麻)」で、赤毛の子犬であった。

上野宅での生活

東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野は秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望があり、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられることになった。ハチの価格は30円(当時)であり、生後間もない1924年(大正13年)1月14日、米俵に入れられて大館駅を出発、急行第702列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着した。

上野の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:渋谷区松濤一丁目付近)にあり、ハチは、「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見がよかった。

ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。

上野の死後

ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう。ハチは、この後3日間は何も食べなかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとSと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。

その後、ハチは上野の妻、八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのため浅草の高橋千吉(高橋子之吉)宅へと移された。しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしかったためか、散歩中渋谷に向かって逸走するなどのことがあるほどだった[4]。さらに、ここでもハチのことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまう。

渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)に住んでいた上野宅出入りの植木職人でハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられる。

ハチが代々木富ケ谷の小林宅に移ったのは、上野が死亡してから2年余りがたった1927年(昭和2年)秋のことであったが、この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。

ハチは小林にもねんごろに愛育されていたのにもかかわらず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返していた[4]。ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の渋谷大向にある旧上野邸に必ず立ち寄って、窓から中を覗いていたという。

忠犬ハチ公

渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となっていた。

一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは東京朝日新聞に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。ハチに付いては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、さらに広く知られるようになり、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。

ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった[4]。ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、野犬に噛み付かれた際の後遺症である。

1933年(昭和8年)11月、ハチが世界的な愛犬団体「ポチクラブ」から表彰される。

1934年(昭和9年)、ハチが映画『あるぷす大将』(監督:山本嘉次郎)に出演する。この映画で生きているハチを見る事ができる。

青山霊園にあるハチと上野英三郎の墓所。囲いの内の手前に見える石祠にハチが祀られる。
日本に数年滞在していたブルーノ・タウトはその日記において1934年10月31日に渋谷駅でハチ公を見たと述べている。人々が優しくなでていくが、その隣にはすでに台座と像が置かれていることが記されている。タウトはこの時、ハチ公の写真も撮っている。

ハチの死

上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口(2018年9月13日~渋谷ストリーム駐車場入り口付近)で死んでいるのを発見された。ここは渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所であった。
現在の渋谷警察署向かいの山下書店(2018年9月~セブンイレブン渋谷駅東口店)にある橋である。
ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報が180、200円を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという。

ハチは上野と同じ青山霊園に葬られ、その墓は亡き主人の墓のすぐ隣に寄り添うように立てられた。死体は剥製にされ、現在は東京・上野の国立科学博物館に所蔵され、幾度となくメディアにも登場している。

ハチの死因

ハチの死体が発見されて間もなく、死体の病理解剖が上野の勤務先であった東京帝国大学農学部において行われた。

解剖の結果、ハチの心臓と肝臓には大量のフィラリアが寄生し、それに伴う腹水が貯留していた。また、胃の中からは焼き鳥のものと思われる串が3 – 4本見つかっている。

解剖後、ハチの剥製が作成されたが、内臓はホルマリンに漬けられて保存された。これら臓器については、ホルマリン液交換の度にじっくり観察すると腫瘍らしきものが見られることが従来から認識されていた。組織標本採取の機会に恵まれた2010年(平成22年)の暮れから精密検査が行われ、フィラリア症は中程度(決定的致死原因に非ず)であって、心臓に重度の浸潤性癌が、肺に転移性の癌があることが確認された。この再検査の結果は2011年に発表された。

ハチの臓器標本は現在、東京大学農学資料館(弥生キャンパス農正門入ってすぐ右)に展示されており、フィラリアが寄生している様子も観察できる。

雑学

忠犬ハチ公はハチ公像の除幕式に参加していた?

渋谷の駅前広場にある忠犬ハチ公の銅像。
忠犬ハチ公像といえば、渋谷駅の待ち合わせ場所として親しまれていますが、実はこの像は、忠犬ハチ公の生前中に、既に建てられていました。

今は亡き主人の帰りを待ち続ける、ハチ公の姿が有名になるにつれて、銅像を建てようという声が広がり、1934年(昭和9年)1月に建設資金の募金活動がスタート。
寄付金は瞬く間に集まり、3ヶ月後の同年4月には、銅像の除幕式(じょまくしき)が行なわれました。

この式には、たくさんの人が参加しましたが、なんと、当のハチ公自身も、渋谷駅長に連れられて、この一部始終を見守っていたのです。

初代は回収後、 機関車の部品に

戦争の長期化にともない、物資が不足し、さまざまな物資の生産や利用が制限されるようになりました。

日本は資源に乏しい国ですから、輸入に頼らなければなりません。

国外から輸入できなくなると、国内から集めるしかありません。

そこで目をつけられたのが、家庭にある資源です。

特に金属は兵器に使われますから、重要視されました。1938(昭和13)年に「国家総動員法」が出され、家庭の金属も動員の対象となり、政府声明で不要不急の金属回収を呼びかけました。

それを受けて、隣組や部落会、国防婦人会などの組織を通じて、任意ですがマンホールの蓋や鉄柵などの回収が始まりました。

現在、顔だけが残っている上野の大仏は、大正12年(1923)の関東大震災の際に頭部が落下して解体されていたため、この時に顔以外の部材が供出されました。

1941(昭和16)年に入ると、緊迫した国際情勢に対処し、重要資源の自給体制を確立するためとして「金属類回収令」(昭和18年8月12日勅令第667号、Ref.A02030328800)が出され、官民所有の金属(鉄や銅、それらの合金)の回収が始まりました。

銅像や寺院の梵鐘、家庭の鍋や釜、ブリキのおもちゃに至るまで回収の対象となり、文化財を含む多くのものが半ば強制的に供出させられました。

家庭にある金属類は「家庭鉱脈」「街の鉱脈」と呼ばれ、郵便受けや火鉢、洗面器なども回収の対象となりました。

金属回収は鉄道の線路にまでおよびました。

例えば国鉄(現JR)御殿場線の国府津-沼津間は複線でしたが、「不要不急線」として半分持っていかれてしまい、今でも単線のままです。

1943(昭和18)年には「銅像等ノ非常回収実施要綱」が出されたり、「金属回収本部」が設置されたりし、東京都では「金属回収工作隊」が編成されて、全国各地で金属回収が強化されました。

同年には「金属類回収令」も改正され、鋼や鉛なども回収対象となりました(1945年にはアルミニウムも対象となります)。

タンスの取手や窓の格子、ネクタイピンに至るまで、ありとあらゆる日本全国の金属類が回収される中、多くの反対や抗議がありましたが、1944(昭和19)年10月にハチ公像もついに供出されることになり「出陣式」がおこなわれました

しばらくは倉庫で保管されていたようですが、1945(昭和20)年8月14日に浜松の工場で溶解されて、機関車の部品となってしまいました。

戦後、ハチ公像の復活を望む声は多く、国内だけでなく、海外にもよく知られたハチ公のエピソードのおかげでGHQの愛犬家のサポートもあり、初代ハチ公像を制作した安藤照氏の子息、士氏によって作りなおされ、1948(昭和23)年8月に同じ渋谷駅前に再建されました。

ハチ公像は残念ながら戻ってきませんでしたが、金属回収からなんとか戻ってきた銅像もあります。

日本橋の三越本店入り口にある二体のライオン像は金属類回収令によって海軍省に供出されましたが、紆余曲折を経てネルソン提督に縁のある東郷平八郎を祀る東郷神社に奉納されて溶解を免れました。

そして、戦後になり、三越の社員が発見して日本橋三越に戻ってくることができました。

このライオン像は関東大震災の際も焼け残っており、震災と戦争を乗り越えてきたことで「日本橋の生き証人」と呼ばれているそうです。

この金属回収について、当時の回収を呼びかけるパンフレット『鉄と銅 特別回収早わかり』(財団法人戦時物資活用協会、1942年)では、下記のような説明がなされています。

「さあ皆さん!愈々皆さんの家庭にある鉄や銅又は銅合金(真鍮、砲金、唐金、洋銀等)を国家のお役に立てる時が来ました。その準備は恐らく皆さんもう充分出来て居ることと思います。そうして国家の為に供出された鉄や銅などは、それぞれの回収路を通って、やがて製鉄所や製錬所へ運ばれます。其処で主として軍需品になって、鉄類なら軍艦、戦車、大砲、弾丸、鉄兜、剣等となり、銅類なら弾丸の薬莢、軍用電線や、飛行機の部品になるのです。(中略)今度の鉄銅特別回収は、右の増産設備が全部完成するまでのいわばつなぎとして行われるものであって、家庭の皆さんにも其の意味で、少しの間辛抱を願わなければなりません。勿論現用品を供出するのですからこれを手放すには大いに愛着もあるでしょう。不便を感ずる場合もあるでしょう。けれどもこれは皆国家の為なのです。国家あっての私達です。そしてもう1、2年もすれば、このことをやがて笑顔で思い出す時が来るでしょう。」

海外で有名な秋田犬

  • プーチン大統領
  • フィギュアスケート女子のアリーナ・ザギトワ選手
  • レディーガガ
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