堺市発祥のもの

鉄砲

ポルトガルから種子島に鉄砲が伝えられた直後、堺の商人橘屋又三郎が種子島を訪れ鉄砲の製法を学んできたのが、堺で鉄砲が作られるようになったはじまりといわれています。
又三郎は「鉄砲又」といわれるほど鉄砲作りがうまかったこと、堺では平安時代から鋳造・鍛造の高度な技術が伝えられていたこと、火薬の原料となる硝石を輸入できたことがその理由でしょう。

伝来当初の価値

種子島伝来当初、未知の製法(ネジ・高品質の火薬)が用いられており、国内生産以前、種子島時尭は1丁につき2千両の大金で2丁(計4千両で)購入した[2]。のちに国内生産が可能となり、堺で大量生産されるに至り、価格も下がってくる。この量産化の成功と低価格化が爆発的な普及のきっかけとなった。

自転車

明治三十年代の初め、北川清吉が堺の町を自転車で走り人々を驚かせましたが、当時自転車は輸入品のみでブレーキもなく、故障や転倒が多く修理が必要でした。
それに対応できたのが、戦国時代から受け継がれた金属加工の豊かな経験と高度な技術を持つ鉄砲鍛冶。桜之町の近藤嘉吉がハンドルやホークを作ったのが、堺の自転車製造の始まりとされています。
その後堺の自転車産業は大きく発展し、現在国産自転車の約4割のシェアを誇っています。

自転車博物館

自転車博物館(じてんしゃはくぶつかん)は、大阪府堺市堺区の大仙公園内にある自転車に関する博物館。正式名称は「自転車博物館サイクルセンター」である。開館は1992年4月。自転車部品メーカーのシマノが設立した財団法人シマノ・サイクル開発センターが管理をしている。シマノの本社があり、自転車が地場産業であることなどから、堺市に建設された。

タバコ包丁

十六世紀後半に伝えられ、次第に庶民の間に広まったタバコ。その葉を刻むタバコ包丁こそが江戸時代の堺の特産品です。
その起源には二説があり、手名長兵衛が作ったカミソリを大坂で売るうちに、その切れ味の良さが秀吉の耳に入り、作るようになったと伝えられる「おかた包丁」。
もうひとつは堺の旧家に伝わる書物による、梅枝七郎右衛門が作った「石割包丁」がもとになったという説で、名工の七郎右衛門が打った包丁はとても良く切れ、石を割るほど鋭いとの評判でその名も生まれました。
幕府の極印「堺極」を認められた堺のタバコ包丁は、全国で売られその名を高めていきます。

線香

十六世紀の終わりに、日本で最初に線香が堺で作られました。香を棒状に練り固めた現在の線香の製法は、キリシタン大名で知られる小西行長の兄によって中国から伝えられたといわれています。
堺は当時わが国有数の貿易港であり、交易品で珍重された白檀や沈香など原料の香木が集まりやすかったことや、寺院が多かったことが線香づくりの発展を支えたと思われます。

日本の産地

堺市(大阪府) – 天正年間(1573–1592年) に、堺の薬種商人が渡韓し線香を発見。日本独自の押し出し機を使った製法を導入し、堺で製造したのが日本最古の線香とされている。戦前には全国生産量の約60%を占めていた。
淡路市(旧津名郡一宮町、兵庫県) – 嘉永3年(1850年)に堺の職人が製造方法を教え製造が始まる。昭和30年代半ばには線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち、70%を占めている。
日光市(栃木県) – 杉が日本全国に植林される前から続く日光杉並木に代表される杉のメッカであり、杉線香の生産量は日本一である
京都府 – 文化的背景に裏付けられた商品力により、生産量対生産額比では日本一の高付加価値製品産地である。

木造洋式燈台

堺燈台は、明治10年9月(1877年)に住民から集めた基金と堺県(現在の堺市)からの補助金で、港の改修とともに造られたわが国で最も古い洋式木造燈台のひとつです。以来、昭和43年1月(1968年)に廃灯となって、その使命を終えるまで、ほぼ1世紀にわたり、大阪湾を航行する船の道しるべとして親しまれました。基礎の石垣の上に築かれ、当初の規模・形態をよく残しているので、昭和47年7月(1972年)国の史跡に指定されました。

学生相撲

大正八年十一月、大浜で第一回全国学生相撲大会が開かれました。新聞に「三万の観覧者、或いは熱奮し或いは酔うが如し」と記されるくらいの熱狂ぶりでした。
大浜が開催地に選ばれたのは、阪堺電車と南海電鉄による交通の便の良さと、関西初のレジャーゾーンとして選手・観客の宿泊に好都合だったことがあります。

学生横綱

個人戦の優勝者には、内閣総理大臣杯と森口忠造杯、日本相撲連盟から学生横綱の称号が贈られる。学生横綱となった選手は、大相撲において幕下15枚目格の幕下付出の資格を取得できる。

なお2016年7月17日の日本相撲協会理事会以降、学生横綱の称号を得られずとも、個人戦で準々決勝(ベスト8)まで勝ち抜いた選手は、三段目100枚目格の三段目付出の資格を取得できる制度が制定された。

但し、いずれの資格も該当する成績を修めた日から1年以内が期限とされる。

三味線

永禄五年(1562)、堺の琵琶法師に琉球帰りの船乗りがみやげに持ち帰った珍しい楽器(サムシェン)-これが三味線のはじまりです。
中小路法師はこの楽器の二本の弦を三本に、丸い胴の部分を角形に、その皮を蛇のかわりに猫の皮に改良し三味線の原型が誕生したのです。
琉球みやげの楽器がはじめから三弦だったという説もありますが、日本独特の三味線を考案したのは、堺の琵琶法師の音への執念にちがいないのです。

堺緞通

天保二年(1831)、堺ではじめて緞通を製造販売したのは糸物商の藤本庄左衛門。堺緞通第一号を織ったのは機屋の泉利兵衛でした。
堺緞通のもとになったのは佐賀の鍋島緞通や中国の緞通で、一本一本手で編みながら模様を仕上げる大変な作業でした。堺緞通の名は、明治十年東京での第一回内国勧業博覧会に出品された時につけられたもので、安価で高品質と好評を得ました。

緞通(だんつう)とは

緞通(だんつう)は、中近東から中国を経て日本に伝来し、江戸時代から近代にかけて盛んに生産された手織りの敷物です。兵庫県の旧赤穂藩、佐賀県の旧鍋島藩と並んで日本三大緞通と呼ばれる堺緞通は、垂直になった織機で織り上げます。出来上がった作品は、緻密で美しいデザインと、深い風合いを兼ね備えていることが特徴です。

金魚

金魚の産地といえば、奈良県大和郡山市などが有名ですが、文亀二年(1502)遣明貿易で栄えた堺の港に、はじめて原産地中国からもたらされました。その時の金魚は赤・白・黒の三種類でした。
十八世紀半ば、金魚についての本「金魚養玩草」をはじめて書いたのも堺の人で、それには金魚のよしあし、オスメスの見分け方、病気とその治し方が書かれています。

江戸前期、大坂の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売りや金魚すくいなどの販売形態も成立した。俳句においては夏の季語となっている。

金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きいといわれている。ただ当時は現代のような飼育設備もなかったために、屋敷に池を持っているような武士・豪農・豪商でもなければ金魚を長く生かし続けることは不可能で、庶民は金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ軒下に吊るして愉しんだり、たらいや陶器・火鉢などに水を張って飼育したりしたようである。ガラスが普及する前は桶などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された。

水練学校

海国日本の青少年がカナヅチでどうする!の考えのもと、大阪毎日新聞は明治三十九年七月、浜寺水練学校をスタートさせました。
エリートコーチの徹底した指導によって、“三日で泳げる”と評判になり、全国各地から入門者がつめかけました。

文禄三年(1594)、納屋助左衛門が南方貿易で今のように開閉できる傘を持ち帰り、豊臣秀吉に献上し傘が普及しはじめました。自在に開閉できる傘は助左衛門が持ち帰る以前に、南中国から伝えられたとする説もあります。
明治時代、商品の広告を入れたレンタル雨傘を考え出したのも、堺の河盛仁平で堺人のたくましい商魂がうかがえます。

商業定期航空

堺・高松間の定期航空が、わが国商業定期航空の第一号。大正十一年堺のパイロット井上長一が、市から大浜の水面を借りて日本初の民間飛行場をつくり、定期航空をはじめました。
その後今治、別府へも定期航空路をひろげ堺は民間航空の要となり、後世の民間航空事業に多大な功績を残しました。

ショベル・スコップ

明治二十年頃、堺の打刃物問屋浅香久平が、輸入品であったショベル・スコップなどを東京で見たのをきっかけに、土木工事が増える日本で、国産のショベル・スコップを作れば社会に貢献できると考えました。
明治二十六年に工場を完成させ、工業生産にこぎつけましたが、その後も品質改良を続け、「折レズ曲ラズ絶対保証」の製品は大評判となり多く輸出されました。

東日本と西日本の呼び方の違い

東日本では大型のものを「スコップ」、片手で扱える小型のものを「シャベル」と呼ぶ人が多いそう。ところが西日本では大きなものが「シャベル」で、小さな方が「スコップ」と呼ばれています。

正式名称

1954年に制定されたJIS規格では足をかける部分があるものを「ショベル(シャベル)」、ないものを「スコップ」としており、厳密には大きさで区別しているわけではないようです。また、地域によっては土などを掘る先のとがったものをシャベル、雪かきなどに使う先の平たいものをスコップと呼ぶこともあるもよう。

機械縫製足袋

それまで熟練工が一足ずつ仕上げ一日三足ぐらいの足袋製造を、明治二十八年に福助足袋の創業者辻本福松が、ドイツ製の靴縫機械を改良してその機械化に成功しました。
足袋縫ミシンの特許第一号も取得しています。

堺更紗 (さらさ)

木綿の布地に多彩な模様を染めた布である更紗 (さらさ) は、室町時代末期の南方貿易で堺に輸入され珍重されました。
その後和泉・河内の白木綿が堺に集まるようになると、鍋島更紗の技術を取り入れて、すり込みの更紗を作ったのが堺更紗です。

更紗(さらさ)は、インド起源の木綿地の文様染め製品、及び、その影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで製作された類似の文様染め製品を指す染織工芸用語。英語のchintzに相当する。日本ではインド以外の地域で製作されたものを、産地によりジャワ更紗、ペルシャ更紗、和更紗などと称している。

医書大全

わが国で印刷・出版された医書のはじめは堺からで、享禄元年(1528)に阿佐井野宗瑞が私財を投じ、医家の虎の巻ともいうべき「医書大全」を刊行しました。
これにより、医学の広まりが促進されたといわれています。

セルロイド工場

明治初めの輸入セルロイドの加工から、明治後半には堺セルロイドがわが国初のセルロイド工場を建設し、明治四十三年にその製造が開始されました。これが今日の株式会社ダイセルの基礎となりました。
堺への工場立地はセルロイド製造に最も重要な良質の水として、大和川や酒づくりに適した井戸水があったからです。

足踏み回転脱穀機

堺市石津町の高野長次郎は自転車の車輪のようなものを回転させて、そこに稲を打ち当てたらと考え自転車の廃品を集めました。主軸と足踏み動輪に自転車のギアを取り付けてチェーンで連結して作りあげたのが、足踏み回転脱穀機第一号です。
これは稲こき作業の能率を画期的に飛躍させることになりました。

隆達節 ( りゅうたつぶし )

小唄「隆達節( りゅうたつぶし )」の生みの親高三隆達(たかさぶ りゅうさく)は、堺で生まれ日蓮宗 (にちれんしゅう) の僧となったのち、還俗(げんぞく)し天性の美声と作曲の才を合わせもった、いわばシンガーソングライターのはしりです。
隆達節 ( りゅうたつぶし ) はその頃琉球から伝わった三味線とともに全国を風靡しました。

銀座

全国に六百近くある銀座という名は、慶長六年(1601)に銀貨を作る鋳造所につけられたのが最初で、その銀貨を日本ではじめて作ったのが堺の人たちです。堺では銀の売買、銀細工をする人たちが、各地から荒銀を買い集め加工して売っていました。
徳川家康は貨幣制度を確立するため、伏見に鋳造所をつくり、その技術長に堺の湯浅作兵衛を選びました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました